ダビデにとってサウルは、主なる神に選ばれた王。祭司サムエルによって油注がれた尊い人です。ダビデにとって、サウル王に 召し抱えられたことは喜びでした。
王となって以来、サウルは頑張ってきました。兵の先頭に立って戦い、強く有能な人物をみつけると召し抱え、人間の力でイスラエルを強い国にしようとしました。
サウルにとってダビデは、はじめは便利で大切な部下でした。しかし、主なる神の力がダビデに働いている。ダビデは自分より神からも人からも愛されている、と思った時、
サウルはダビデを憎みました。神の目が自分からダビデに移った、と 妬んだのです。
でも主がサウルに「あなたの王権は続かない。」と言われたのは、サウルがダビデに出会う前。
サウルが祭司サムエルを待たず献げ物の儀式をした時も、主がすべて滅ぼせと命じられた戦いで、兵士と共に敵の家畜を略奪した時も、サウルの言い訳は 兵士が欲しがったから。兵士が騒ぐから。主に選ばれ王となっても、サウルは神ではなく人を見てしまう王でした。
ダビデは勇敢に戦い、努力しました。でもサウルには憎まれ、命まで狙われています。
サウルから逃げるためにダビデ達が隠れていた洞窟に、サウルはトイレのために入りました。
サウルはダビデ達に気づかず、完全に無防備です。ダビデ達は武装しています。
兵たちは「今、サウルを討とう」と言いましたが、ダビデは兵を止めました。
「主が油注がれた方に手をかけてはいけない」 ダビデはただ、サウルの上着の端を サウルに気づかれないように切り取りました。「あなたのすぐそばに、私たちは居た」という証拠です。
この証拠を取ったことにも、ダビデは後悔しました。
サウル王と自分が ただお互いを見ている時にも、ダビデはそこに主なる神の目と心があることを知っていました。きょうの箇所でも、ダビデは一度もサウルを悪く言いません。
16節「主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」 サウルはダビデに自分の子孫を生かしてくれと頼み、ダビデも誓います。けれど、ダビデは自分が人でしかないことを知っています。
サウルと自分、どちらが正しいか判断するのは主。自分ではない。
ダビデはいつも主なる神が共に居られることを意識していました。
きょうのルカ福音書の女性も、理不尽な扱いを受けています。でも彼女はダビデと違い、
無実ではありません。確かに罪ある生活をしていた。おそらく売春婦のような働きをしていた人でしょう。この町の人たちに「罪深い女」と知られていました。
ファリサイ派の人 シモンは、イエスを招いたこの家に あの女性が入って来るのを止めません。食卓でくつろぐ自分とイエスのところに入って来た女が、イエスの足に取りすがっているのを見ていました。このイエスと言う人が預言者なら、この女が罪深いとわかるはずだ。
シモンの心の中の声を、イエスは気づいていました。
このころのユダヤ人の食卓はテーブルではなく、半ば寝そべるようにして食事しました。
その食卓に彼女はイエスの足もとに近づきました。
彼女はこの箇所で、一言も話していません。ただ近づき、泣き、イエスの足を髪の毛で拭き、
香油を塗ったのです。 この町にイエスが来たと聞いて、彼女は香油を用意して来ました。
シモンの家に入れば、人々から嫌がられ、文句を言われ、追い出されるかもしれない。
それでも彼女は勇気を出し、イエスを捜して近づきました。
シモンはイエスを家に招きました。しかし、招待客に対する礼儀を忘れていたようです。
客はほこりだらけの道を歩いて 暑い日中に家に来たのです。
客が足を洗う水を用意し、乾燥する頭に油を塗り、歓迎のキスをする。
この当時の歓迎のやり方を飛ばして、イエスは食事の席についていました。
多くの人の病を癒したイエス。貧しい人にも福音を宣べ伝えるイエス。神から遣わされた方。
彼女はそっと 後ろから近づきました。イエスも自分に気付いたら嫌がるかもしれない。
恐れていた彼女は、イエスの足に触れると涙が止まらなくなりました。
イエスは嫌がらない。拒否しない。彼女が触れるままにしている。
イエスに感動した彼女の涙は、ちょうどイエスの足を濡らしました。 涙でイエスの足を洗った、というより、思わずイエスの足を濡らしてしまい、彼女はとっさに
自分の長い髪をほどきました。拭くものなんて持っていません。あわてて髪で拭いて、さらに香油を塗り 髪で拭いて。良い香りが部屋に広がりました。たぶん、彼女は全く意図せずに、シモンが忘れていた客人へのもてなしを より上等に 心を込めて 行っていたのです。
「『二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』『帳消しにしてもらった額の多い方だと思います』」
借金を帳消しにしてもらった。 借金とはイエスに在って赦される罪の比喩です。
イエスはシモンの招待も、彼女が足に触れるのも 受け入れました。
シモンには シモンとイエスと女性が見えているだけ。そこにも主なる神が居られることは、
シモンの考えにはありません。そしてこの女性の方は、むしろイエスしか見ていないかも知れません。 これまでどんなに罪深い生活をしてきたか。それでも、自分はイエスに近づきたい。神から遣わされた方に、自分を受け入れて欲しい。神からの愛を、もう一度受けたい。
500デナリと50デナリ。彼女がシモンの10倍罪深い、とイエスが言ったようにも聞こえます。
しかし、イエスは彼らの示した愛は、彼らの信仰によって神から与えられたもの。
彼らが神に赦され、神から愛された、その表れだと言われたのです。
ある意味、シモンはサウル王に似ています。人々が自分を 世の中を何と言うか。
目に見え、現れるものに関心があります。けれどもイエスは、そこに働かれた主の御手を見て、与えられた愛の深さを喜んで祝福して下さるのです。
正しいかどうか、判断されるのは主なる神。試練の中も主の目を感じ続けたダビデのように、
赦され与えられた愛によって、神と人と共に生かされていきましょう。
お祈りいたします。
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