愛に偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 愛に真実と偽りがある。その愛を学ぶ
サンプルとしてこの手紙が「相手」と呼ぶ人たち:聖なる者たち、旅人、迫害者、喜ぶ人泣く人、身分の低い人…彼らを見ると、「互いに愛し 優れた者と思う」ことがいかに難しいかが実感となってきます。
聖なる者たち。現代 聖職者と呼ばれる人たちは一定の尊敬を集めます。
「悟りを開く」という仏道の言葉がありますが、学校の教師、研究者、宗教的指導者:僧侶や司祭、牧師など「一般人ではない」と見られる人たちの職業を聞いた途端、周囲の反応は変わります。「自分なら選ばないその立場にいる人。別な世界、違う価値観の人」。 往々にして、
研究者の資金集めのマラソンやイベントを見ても、宗教指導者が古びた服でいても、それは
清く徳のある生き方と思う反面、それは彼らの身勝手な貧しさだ、と、一歩引くのはよくあることです。「貧しさを自分のものとして彼らを助ける」ことなど思いもつかない。
私もそういう反応をする側でした。 今の私の場合は貧しいというよりケチなのですが。
聖書の時代の旅はかなり危険でした。現代でも携帯もお金も無く知り合いもいない旅先での
病気やケガは、心細く命がけになることはあります。旧約聖書の時代、通りすがりの旅人を
もてなさないことは、見殺しにすることでした。
迫害は現代の日本社会には無いと思うかもしれません。同じ信仰を持たない、価値観が違う、という理由で攻撃され生きる場所さえも失う。「いじめ」と「迫害」は同じ根を持ちます。
「身分の低い人々と交われ」は、自分をいじめられる人の側に行け、安全圏から離れよ、という言葉とも言えます。最も「兄弟愛をもって愛する」ことが困難な「迫害者」は、決して知らない他人ではありません。私たち自身「迫害者」の側に立つことがあるかもしれない。
人間がいるところでは いじめ は無くならない、と言われています。
12章10~12節は、偽りのない愛を 行うために、命じられていることです。
主の私たちに向かい燃え上がる愛の炎を、聖霊によって魂の内に頂いて、たゆまず祈る。
そして、サンプルとして並べられた人々のような「相手」を、
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」
徹底的に、「相手」のために生きなさい、と言うのです。その上で、
喜びや悲しみに共感し、互いに思いを1つにできれば。自分は違う と うぬぼれず、
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
そんなことは無理だ、と思うでしょう? 遠くから知ったようなアドバイスをくれる人、
どんなに心細くても気づいてくれない人、どうしても価値観が合わず いじめ の関係になってしまう人。愛するなんて、できない。そんな私たちの内側で煮えたぎる憎しみや怒りを、
主なる神はご存知です。
ですから、もし心の内に「相手」のために自分を動かす愛が無い、と言うなら、むしろ
その憎しみをぶつけて相手がうろたえるほどに「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」憎むよりもずっと難しいけれど、「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」そして、命も死も滅びもこの世もすべてを創り出した方に、
最も強く最も恐ろしい方に、「相手」を委ねるのです。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
今日読んで頂いた出エジプト記では、弱い者 力の無い者を苦しめてはならない、と書かれています。考えて見れば誰にとっても、寡婦:夫と死に分かれた妻も、孤児も、自分とは全く関係はないと言える人は いないはずです。いつ、自分が立つこの場所が失われるか、
わからない。私たちの国 日本ではいろいろな自然災害が起こり、いま、今年、きょうこの時にも 巨大な台風が停滞し苦しみ恐れる人が居ます。
ナザレンの群の中も、集まることが危険でオンライン礼拝になった教会があります。
その通信も、停電でいつ切れるかわかりません。
弱き者が主に向ってその苦しみを訴えるなら、主は必ず聞いて下さる。主は憐れみ深いから。
私たちの主なる神は、必ず弱い者の側に立って下さる方です。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」 主なる神は人に、いつもあなたは何者か、と問いかけておられます。
主が土の塵から造られた最初の人アダムには「塵にすぎないお前は塵に返る。」と言い、
イスラエルの民にはあなたたちはエジプトから呼び出され 荒野を彷徨った民、と言われます。
私は日本人としてこの国の国籍を持つ人間。私たちは地球上で、それぞれ市民権を持ち生きる場所を持つ人間。生まれてから特に引っ越しもせずにいる人ならば、私は 寄留者=一時的滞在者ではありません、と言うでしょう。でも主は私たちも寄留者だと言われます。私たちの命には限りがあり、この地上で永遠に暮らす者などいません。
この地上=宇宙自体、主が定められた時に終わりを迎えるのです。
私たち人間は、以前は行く先のわからない、放浪者でした。主イエス・キリストが世に来られ、ご自分の地上の命と引き換えに、私たちを神の国の民として下さいました。
ですから私たちも寄留者で旅人。目的地はキリストに与えられた故郷 神の国です。
地上に共に置かれた人間を、私たちと共にご自分の国に招き入れるため、主は共にいて、
私たちの旅を導かれます。壁を作ったり、無視したり、いじめ いじめられている場合では 無いのです。厳しい旅を共に行くのです。共に旅する隣人なのですから。
すでに旅は始まっています。ですから、主はこの手紙を通して言われるのです。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように 心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と 平和に暮らしなさい。」
お祈りいたします。
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