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「主に倣(なら)う」

 

 

 

 テサロニケの人々は、普通の人です。パウロが手紙を書き送ったどの教会と比べても、彼らは素直で真面目で、極端なところがありません。

パウロは使徒言行録で書かれた3回に渡る伝道旅行で、イエスの福音を宣べ伝えました。

パウロたちが行った 現代で言うトルコやギリシアは、ヘレニズム文化と呼ばれる多神教の土地で、多種多様な神々の神殿が軒を連ね 偶像が立ち並ぶ町々でした。

パウロは伝道旅行の後、それぞれの町に手紙を書き送り、それが後に新約聖書に編集されました。

コリント、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイ、そしてテサロニケやローマ。

それぞれの教会で問題が起きました。ユダヤ人とユダヤ人以外の人々が互いに差別し合い、

パウロ、ペトロ、アポロなど伝道者たちにファンが現れグループ対立する教会、

熱心な奉仕者同士が喧嘩になり一致が保てない教会 など。

 テサロニケの教会では、争いも対立もありません。彼らはパウロたち信仰の先輩の言葉を素直に聞き、聞いたお話しだけではなく 先輩たちの伝道する姿や信仰の持ち方を熱心に見て、自分たちも同じようにしてみよう、と、努力したのです。

彼らにとって聖書の神は、それまでに知らなかった新しい存在でした。

聖書の神は唯一絶対のお方。その神が人間を救うために、独り子なる神イエスを人として地上に送るほど、自分たちを愛しているのだと聞きました。

この福音をテサロニケの人々は受け容れ、そこに教会が誕生しました。

パウロたちは彼らの素直な熱心を喜び、彼らをまるで「母親がその子を大事に育てるように(2章7節)」いとおしんで育てました。彼らの信仰の成長は、パウロたちにとって喜びであり、

神に何度も感謝の祈りをしたほどでした。

テサロニケの人々がパウロたちをお手本にして、熱心に教会生活をするようになりました。

すると、彼らの神を愛し信じる態度は彼らのことを喜んでいるパウロ達の口を通して、

彼らの教会がある ギリシアのマケドニア州やアカイア州の人々に伝わりました。

そして今度は彼らテサロニケの教会の信仰が、人々にとって信仰のお手本になったのです。

 トルコやギリシアの人たちにとって、町中に偶像があり いろいろな神殿に出入りする人々の姿は、見慣れた普通のことでした。現代の日本でも、神社仏閣は町々村々にあり、年末だ 年越しだ 正月だ 祭りだ、と、人々が行き交う姿は当たり前に見られます。

その中で、パウロやペトロのように聖書の神を信じる人々は異質な存在でした。彼らの語る福音は、この土地の人たちにとって新しく不思議で、彼らの話を聞いた人がすべて クリスチャンになるわけではありませんでした。

むしろ、なぜ受け入れる人がいるのか、と、信仰を持つようになった人が今度は拒否され、

時には激しく迫害される、ということがありました。

その中で、テサロニケの人々の信仰は驚きでした。自分たちと同じく、町中の神殿に祈ったり献げ物をして願掛けをしていた彼らが、なぜあんなに熱心に素直に信じているのか。

パウロを手本にするのはハードルが高かった人にも、自分たちの仲間の中から出来上がった教会は、入りやすく興味の持てる場所でした。

彼らがパウロたちをどのように迎え、「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったか」 それはマケドニアでもアカイアでも、人々の興味を引きました。

テサロニケの信徒たちが受け入れ信じて待ち望む方こそ「神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」 彼らが知った、希望なのです。

 

 預言者エゼキエルは、まさにイスラエルがバビロン捕囚となる前夜にいます。神はイスラエルにエゼキエルを遣わし、あなたたちはここから捕らえられバビロンに連れて行かれる、と伝えました。でも、イスラエルの人々は話を聞きません。なぜなら、「あなたたちはやがて裁かれる」という警告は、これまで何人もの預言者たちが語って来ていたからです。

「またか」「どうせすぐには実現しないよ」民は預言者に言いました。けれど、神は

「それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する」 「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる」

 私たちは小さいころから防災訓練を受けてきました。その訓練はけっこう役に立つことも、

東日本大震災などの中で学んできました。 けれど、それでも、なかなか防災袋の用意や、

避難経路の確認などきちんと確認した、と自信をもっては言えないかもしれません。

聖書には沢山の 終末に関する教えがあります。

この世の終わりがすぐには来なくても、私たちの命の終わりの日を正確に知る者はいません。

 でも、主は私たちに不安を与え、落ち着いて安心しているわけにはいかない、という 思いを持たせておられます。世の終わりの裁きの時 というのは、語られるばかりで実現しないただのお話 とは言えません。神の言葉は必ず成る。

私たちは自分たちの信仰の備えを、確認する必要があります。

 きょうテサロニケの教会への手紙が語ったことは、私たちの備えになります。

主に倣う者となる。それは「キリストのように生きる」ということですが、私たちがすべて、

イエスのように十字架につけ、と言うのではありません。

主に倣う それはキリストの苦しみを共に経験するだけではありません。

主イエスは死を滅ぼし復活し、永遠の命に生きる姿を地上の親しい者たちに見せて下さいました。

もう十字架は完了しました。イエス・キリストは十字架でただ一度死に、私たちの救いを完成されました。「死によって すべてが終わる」ことは無くなりました。

もう死に、主イエスを信じる私たちを滅ぼす力はありません。

テサロニケの人々のように素直に、主イエスが約束されたs永遠の命の希望を語るのです。

私たちが主に習うとは、復活の主の希望を語る姿に倣うのです。

永遠に続く命こそ、私たちが経験し人々に伝えて行くべき喜びの福音なのです。

お祈りいたします。