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「憐みの主」

 

 会堂長はイエスに腹を立てた。それはイエスが安息日に、癒しの業を行ったからです。

会堂長の判断基準は出エジプト記20章「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という律法です。

長年苦しんだ病が癒され、癒された人が喜び神を賛美した。この奇跡に驚くのではなく、安息日の礼拝が乱されたことに怒ったのです。

イエスの行われた奇跡を 癒された女性と共に喜ぶのではなく、礼拝中に癒しの仕事をした

イエスを律法違反者だと責めたのです。

 イエスはとても厳しく彼に応えました。律法からの判断に「偽善者たちよ」と言ったのです。

ここで起きた奇跡を、どう見るべきか。イエスは何をしたのか。

病が癒され、罪が赦される。病気は罪を犯した者への神の罰と考えられていました。

キリストの十字架が私たちの罪の身代わりであり、イエスの苦しみによって、私たちの罪は赦される。十字架でイエスが1度、死なれたので イエスへの信仰によって私たちの罪は贖われ、

もう罪人ではない。そう言われても、「私は赦された。完全に罪の問題は解決し感謝!」という気持ちにはなかなかなれない。自分は不信仰なのだろうか、と、悩むことはありませんか?

聖書には罪を犯罪として裁かれるものとする他に、病として治し癒して頂くべきもの、という考え方があります。どんな軽い症状でも病気になったことがある人なら、治るには時間がかかる、ということを知っています。薬を飲んでも、手術しても「治った!」とはすぐには感じない。

病が癒されるには時間がかかる。私たちの罪も、病と同じような「癒されるための時間」は必要なのです。

 この女性は18年間、苦しんでいました。腰が曲がったまま伸ばせない。この病は隠すこともできません。それでも彼女は会堂に来ていました。苦しみながらも、礼拝することを止めなかったのです。

イエスは彼女の病を癒し、苦しんできた日々から解放して下さいました。

会堂長は礼拝の整然とした空気を乱されたことに怒りました。

病の苦しみ、罪ある者と言われる悲しみを抱えたまま礼拝する苦行と、

苦しみ悲しみを癒され、赦され解放され、喜び感謝して礼拝すること。

どちらが真の礼拝でしょう?

心から主を喜ぶ者こそ、真に主を礼拝する者ではないでしょうか?

 きょうの旧約 アモス書「善を求めよ、悪を求めるな」。何を善とし、何を悪としますか?

善悪の基準は、人間の中には沢山あります。100人いたら、100通りの善悪があるでしょう。

唯一絶対の基準は、人間の中にはありません。

最初の人アダムは「善悪を知る木の実」を食べました。「食べてはならない」という主なる神の

言葉を捨て、自分の判断で 自分自身を判断基準とした。それがアダムの罪。原罪です。

天地万物を造られた主なる神こそ、唯一絶対の方です。この方こそ、基準とするべき方です。

「悪を憎み、善を愛せよ」アモス書5章6節に「主を求めよ、そして生きよ」とあります。

主を求めること。それが善を求め、善を愛すること。

神を求める。それは主なる神に向い「あなたのために生きたい」と、主の御心を求めることです。

神を念頭に置き、近づこうとする。主はご自分を求める者を憐れんで下さいます。「憐れまれる」というと、大切にされるというより 見下された印象があるのではないでしょうか?

愛するよりも憐れむ は 対等ではない立場が感じられます。

主が憐れんで下さる。それは「主なる神は私たち人をバカにしている」のではありません。

主は 唯一絶対の方。何よりもどこまでも高い方。主は高く清く聖なる方でありながら、

イエスを人として死なせるほど深く、愛情を惜しみなく私たちに注いで下さる方なのです。

主なる神は命の源。神を求めず遠ざかること。知ろうとしないことは、悪を求めること、

死と滅びへと向かい、命を求めず欲しないことです。

 アモス書5章17節 主が「お前たちの中を通る」

創世記3章8節「主は園の中を」歩かれ、アダムの罪を裁かれました。

「裁き」を「罰を受ける」と同じと思う人もいますが、裁きは傷つけることではありません。

主は「裁きたい方」ではなく「愛したい方」。裁き は「正しく相応しい所に置く」ことです。

裁きは愛であり癒しでもあるのです。

 安息日に礼拝するため会堂に集いながら、病に苦しんでいた人をイエスは癒しました。

マタイによる福音書2章にこうあります。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

会堂長が基準とした「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…いかなる仕事もしてはならない」安息日は、本来、人を日常の労働から解放し、主の前で正しく主に相応しい者として癒し回復させるための日です。 私たちは週の初めの日を礼拝日 安息日としています。

私たち一人一人が抱える苦しみ悲しみ。私たちの人生を通して働いて下さる主の御手によって、

私たちの罪が癒され、赦され、主の愛の内に回復されていく。そのことを喜び、感謝して

私たちは主の前に出て礼拝するのです。

 安息日を聖い主のための日、特別な日として大切にする。

この日、主は私たちを新たに裁き、居るべき場所 立つべき場所に連れ帰って下さいます。

主を礼拝する日は、私たちが互いの弱さを受け入れ主による癒しの業が働いていることを喜ぶ日。罪からの回復を感謝する日。

裁き主、癒し主、救い主の御業が私たちの内に行われていることを喜ぶ日です。

愛であり命である主と共に過ごす日。

憐れみの主が 私たちと共にいて下さることを 喜び感謝する日です。

お祈りいたします。