昔のテレビドラマのアメリカ開拓時代の教会で、教会に鐘を設置するために献金を集めよう とする話がありました。裕福な商店主が「自分が費用は全部出す」と言い、「その鐘には出資者である自分の名前を刻め」と言いだして、大騒ぎになりました。
あのドラマではお金を出すこと、それによって自分をアピールしようとしたことが問題になりましたが、きょうのコリント教会への手紙はパウロが自分の生活資金を、コリントの人たちの献金から受け取ることを断ったことが問題になっています。
パウロが裕福でお金は要らない、ということではありません。事実、パウロはコリント教会以外からの献金によって生活していました。それに彼自身、親譲りのテント作り職人としての腕を持っていて、必要ならば宣教活動の傍ら生活費を稼ぐこともありました。
ではなぜ、パウロはコリントでの伝道への支援を断ったのか。パウロは断る理由をはっきりとは書いていませんから、前後を読んで推測するしかありません。
ここには私たちが知らない、パウロの評判も書かれています。
パウロの話し方は上手ではなく素人と言われていたようです。彼がここで大使徒と呼ぶのは、ペトロやヨハネ、ヤコブなどの12使徒:イエスの直弟子のこと。実際、使徒言行録20章にはパウロの長話に耐えられず、居眠りをした若者の転落事故の記事があります。
あんな話に献金を出す必要があるのか?と言う人が居る とか、へたくそな自分に支援なんて要らない、とパウロが言った、という話ではありません。むしろコリント教会の人たちは旅費も自腹で巡回伝道するパウロに、傲慢だの 自分たちをバカにしているだのと不平を言っていた節があるのです。
コリントの信徒への手紙一9章でも同じ問題が出ています。
その時、パウロはあなたたちに福音を語る、という恵みを 主は自分に与えた、という趣旨で手紙を書いています。
なぜこんなに頑なに、パウロは報酬を受け取らなかったか。
コリントの信徒に、あのドラマで鐘に自分の名前を刻ませようとした、商店主のような感覚があったからでしょう。
昔も今も、専任の伝道者は各団体が集めた献金から報酬を得て生活しています。
教会でお金の話は聞きたくないという方もあるかも知れませんが、ナザレンでも他の団体でも、謝儀を出す力が無いまたは足りない教会の伝道者もあり、団体によっては労働司祭と呼ばれる専門職を持つ説教者は存在します。中にはほとんどの牧師が医師や公共職員と兼任 という
教団もあります。
実際の目に見えるお金の動きがどう、という話ではありません。支援を望まないパウロも、
9章では飢饉で苦しむエルサレム教会にコリント教会からの支援を要請しています。
「要るのか 要らないのかどちら?」と混乱するかもしれません。待って下さい。
献金とは何でしょう。教会が行う慈善活動でしょうか?資金集めでしょうか?
それは、主なる神に対して捧げる感謝と信仰の現れではなかったでしょうか?
伝道者であろうと、信徒であろうと、人間誰であっても、生活を守り 生かしていて下さるのは主なる神様です。どんなに教会に力があっても、一人一人が優しく配慮があっても、命を与え生活を支え、必要を満たして下さるのは神様です。
箴言25章「ことを隠すのは神の誉れ」「天の高さと地の深さ」
私たちの神は、ご自分の姿を私たち人から隠す方。私たちの目に見えない方です。神の御存在も業も、被造物の一つである私たちには 知り尽くすことも理解する事もできません。
私たちができるのは、箴言が人間の代表として書いた王のように「ことを極める」こと。
私たちに与えられた日々の役割を心を込めて行い、その働きを極めようと努力することです。
どんな私たちの努力でも、主なる神を完全に知るには至りません。かえって主の尊さを思い知るばかりです。
銀から不純物を除け。 銀は良いもの。いろいろな事に役立つ貴金属ですが、
不純物が多ければ成形は難しい。不純物の多い銀は錆びも劣化も早いのです。
銀の精製には高温の炉を使う昔ながらの方法の他に、
現近代では薬品によって不純物を溶かす方法があります。良い銀の器を造り出すためには、
素材を精錬しつくす必要があるのです。
私たちを主の業に用いる素材と考え、精錬の作業として書かれたのが、
王の前から反対者を取り除くこと。
目的に真っ直ぐ向かう道を引き継ぐためには、意見の一致が無ければ 争いの元です。
王や身分の高い人の前でのうぬぼれ。 自信をもって働くことは必要ですが、高慢にならず
謙虚であれば無用な争いは起きません。
性急に争うな。判断を急ぎ、落ち着いて考える事も調べることもしないなら 解決も正しい結果も得られません。まして、自分の争い事を、他人の秘密の情報で切り抜けようとするなら、事は収まるどころか自分の立場を悪くするばかり。
誠実に与えられた役割を極める努力する時こそ、金の林檎や美しい宝飾や心地よい季節のような 美しく魅力的な結果に近づくことができる。心も魂も 必要を満たされて安らぐのです。
コリント教会から支援は受けない。パウロは「これからもそうするつもりです」と言います。
最初にお話しした教会の鐘のように、献金の目的が本来のところから迷い出て変わってしまうなら、パウロが「サタンに仕える者が義に仕える者を装う」と言うような厳しいことが起きるのです。
パウロがどこから生活資金を得ようと、コリント教会も私たちも、イエスが言われたようにするべきなのです。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
真心から主を礼拝し主に従うなら、お金であろうと奉仕であろうと信仰であろうと、
用いて下さるのは主なる神です。
必要を満たす業は、主なる神の御手によって成されるのです。
お祈りいたします。
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