詩編49篇の1節に、この詩編が賛歌だと書いてあります。神殿に集った民と祭司は、
伴奏の楽器に合わせ、呼び交わし 私たちが交読文を読むようにして用いられました。
13節で「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」
21節で「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」
これが、民が祭司の詠唱に応じる言葉です。
人間は豊かな者にも貧しい者にも、知恵が与えられている。でも、人がどんなに莫大な財産を手にいれても、神から魂を買い取ることはできない。魂の値段は、とても高いのだから。
「人は兄弟をも贖いえない」たった一人、自分の兄弟の魂でさえも買い取れない。
もし買い取るためにローン契約をしても、その期間は永遠。でも、
「とこしえに払い終えることはない」なぜなら、人間の命には限りがあり、永遠に払い続けることはできないのです。人はいつか死ぬものなのだから。
「死んでしまえば人も獣も同じ」と言うこの49篇の真っ暗な世を、まるでオセロゲームの駒のようにひっくり返す言葉があります。
16節「しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」です。
この世でどんな大金持ちも、どんな素晴らしい名誉も、死ぬとき、何一つ持って行けない。
この世の努力のすべては空しい、と嘆いていたこの人の魂は、神が買い取って下さいました。
もう魂が陰府で永遠に滅ぶことはない。すべてが無になることはない、と、16節は詠います。
一体、神はどうやって 人間の魂を買い取って下さったのか。何を支払って、私たちの魂が
陰府の手から、永遠に蝕まれる運命から 取り上げ救い出して下さったのか。
永遠の滅びを打ち消して余りある、永遠の祝福を与えるために、支払われるのが何か、
詩編49編の詠唱者は知りません。私たちが新約聖書によって、神の子イエスがこの世に人として生まれたことを知りました。永遠の神の御子は救い主としてこの世に生れ、
罪なき人として生まれたイエス・キリストの十字架の死によって、支払いは完了したのです。
神の子が滅びゆく罪人の一人として死ぬことによって、人間は 陰府で永遠に滅ぶ運命から取り上げられました。 とこしえの滅びを打ち消すのは、とこしえを造り出す神の御子の命なのです。
ルカによる福音書には、イエスが教えた抜け目のない管理人の話があります。
この管理人が管理している財産は ある金持ちのもので、この大金持ちは何人もの人に様々な
ものを貸していました。主人はが信用して任せていた財産管理の責任者に、不正疑惑が持ち上がったのです。 主人は疑惑の管理人に会計報告と、クビを 雇用契約の解消を言い渡しました。
管理人の対応は、迅速でした。彼が急いで動いたのは主人の財産の穴埋めではありませんでした。今さら、バレた不正をごまかしても始まらない。
主人の財産よりも、自分の居場所の方が大事。
彼の、いま最も大きな問題は、自分の居場所や収入減が無くなることでした。
管理人は、自分が肉体労働できる体力など無いことを知っていました。それに、これまで主人の財産管理という立場を利用して、さんざん偉そうにしてきたのです。無職になって物乞いして、
ホームレス生活するつもりもありません。
彼が思い付いた解決策は、彼のこれまでの立場を最大限に利用することでした。
彼は主人の取引先も、その一人一人が主人に持つ借財も、すべて把握しています。立場をりようして呼びつけた一人一人と彼らの借金額を確認し、それを大幅に減額した借用証と本当の借用証をすり替える。そうやって主人の管理人として付き合って来た人たちに恩を売り、不正の片棒を担がせたのです。もし自分が主人のところでクビになっても、生きる場所を手に入れるために。
主人の財産が減っても、自分は生き延びるために。こんな人物は、逮捕され投獄されて当然です。しかし、彼の主人は彼を褒めた。クビにするしないは別として、主人は彼のやり方の抜け目の無さを褒めたのです。
なぜ、彼は褒められたのか。彼が賢く振舞ったから。彼が彼の仕事上の関係や、
これまでの財産管理者としての経験を最大限に生かして、自分の生きる場所を確保する努力をしたからです。
私たちの人生は、自分がどんなに罪深い者か、確認しながら生きることです。自分が神の前に出て行けるほど、聖い者では無いと自覚しながら、それでも自分に与えられた命を大切にして、
自分の役割を果たしていくこと。それが、この世で私たちが生きることです。
私自身、神の言葉を宣べ伝える働きに召され、イエスの福音を語り続けています。
でも、一人の人間として、罪深い自分自身を通して語ることしかできない。
まして、まだ神の存在も、イエスの十字架の意味も知らない人たちに、この大きな恵みを伝えるなんて。私がしている伝道は、まるであの管理人が油100バトス借りている人の借財を50バトスと書き換えるようなものです。神様の素晴らしい恵みも御業も、100%伝えることなど、できるはずが無いのです。
主が私たちに命を与え、信仰を与え、人々の中で主を信じて生きる姿を見せる。
私たち自身、十字架で救われた罪人なのに。
私たちは、自分の不正をさておいて、居場所を確保しようと頑張った、あの管理人のようです。あの主人は、彼を褒めた。 私たちが自分自身の罪を自覚しつつ、救いの喜びを伝えていくことを主は望み、喜んで下さるのです。
私たち人間を、死んでしまえばすべて終わり という 不条理な絶望から救い出すのは、
永遠を治める主なる神が遣わした救い主の命による贖いだけなのです。主は私たちが与えられた命の限り、自分の命や知恵に限りがあっても、それを最大限に使い、自分のためにも 人々のためにも、主の前に集う場所を守ることを願っておられます。
私たちは確かに罪人ですが、永遠の神の子の命と言う法外な値段で、その罪から買い取って頂いた者です。私たちはすでに、永遠の神の御国に、居場所を用意された者なのです。
お祈りいたします。
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