パウロとシラスがフィリピを訪れたのは、使徒言行録16章 第2回伝道旅行の時です。
主イエスの霊に導かれた彼らは「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願う人の幻に応え海を渡りました。パウロたちはこの町の騒動で逮捕され、獄中で大地震にあい、その中で獄の看守を信仰に導きました。看守一家がフィリピ教会の最初の信徒です。
フィリピ教会の人々はギリシアの偶像崇拝の文化の中にいましたが、主なる神にとても素直で熱心な信仰を持っていることを、パウロは喜んでいました。
でもパウロは1章27節で言います。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」彼らの何が キリストの福音にふさわしくなかったのでしょう?
同じ27節で「一つの霊によってしっかり立ち」と言うパウロは、2章でも「思いを1つに」
と言います。また、フィリピの信徒への手紙4で書かれたこの教会。パウロは言いました。
「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
2章3節「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
素直に信仰を受け入れた彼らも持っていた問題。それは彼らが仲間に関心が無く、配慮も心配も、互いに祈りあうことも無いことでした。彼らの信仰はとても個人主義的で、彼らの関心は自分自身に向きがち。同じ教会の群に属していても協力するより自分の意見を主張して争う、近視眼的だったのです。
彼らは率先して献金しパウロたちの伝道活動を支える、とても熱心な人たち。この土地の習慣となっていた偶像崇拝からも潔く離れ、パウロが宣教活動でたびたび逮捕・監禁されても、恐れて信仰を捨てるようなことの無い人たちです。
パウロはいつも「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と伝えました。パウロは彼らのために祈っていました。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。」
彼らがまだ身に着けていなかった、本当に重要なこと とは?
パウロはフィリピの信徒たちに言っています。1章7節「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」。
それはパウロがフィリピ教会の人たちに関心を持ち、彼らのために神に祈っている、ということ。彼らが神から受けている恵みを喜んでいるということ。
パウロは自分の事ではなく、彼らフィリピの人々のことを考えています。
パウロが4章8節で「兄弟たち…心に留めなさい。」と言うのは何か。あなたたちの中には無い、あなたたちから見て「徳や称賛に値すること」に、 まだ、あなたたちが持っていない、良いことに関心を向け、見倣いなさい。あなたたちの中ではなく外に、あなたたちが生きる場所で出会うこと。神があなたたちに与えて下さる出会いを大切にし、学びなさい、と言うのです。
たとえば彼らはパウロに出会い、パウロが告げ知らせた救い主キリストなるイエスを受け入れ、
信仰を持ちました。4章9節「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」彼らフィリピの人々が持っていなかった、イエスの福音に従って生きる、ということを、彼らはパウロから学んだのです。
彼らを救いに至らせた恵みは、彼ら自身の中から出たものでは無かったのです。
創世記6章に出てくる、ノア。彼の生きた時代の地上がどんな場所か、客観的な情報:
どんな町で、人々は何を食べ、何を着たか、聖書は何も書いていません。ただ、主なる神はこの時代を、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」と見ました。
創世記6~8章で、神は地上に大洪水を送り、ノアたち一家と箱舟に乗っていた生きもの以外、すべて滅びました。しかし、主は8章21節でこう言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」
6章9節で「ノアは神に従う無垢な人であった」と書かれたノアでさえも、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」という性質を持っていたのです。
ノアは主なる神の言いつけ通り箱舟を造り、神が地上から呼び集めたすべての動物と共に箱舟で命を与えられました。箱舟の造り方、動物の世話、
そこにノアがこれまでの生活で身に着けたこと、経験してきたことはありませんでした。
彼が「主の好意を得た」のは、彼に罪が無かったからではなく、彼が神の言葉を真剣に心に留め「神に従う」人だったから。主の心の「慰め」であったノア。
「わたしは、わたしとあなたたち…すべての生き物…の間に立てた契約に心を留める。
水が洪水となって…すべて滅ぼすことは決してない。…わたしは…永遠の契約に心を留める。」
フィリピの信徒たちが見分けるべき「本当に重要なこと」。
「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと」主が私たちをこの時代のこの場所で生かして下さる。ここに意味があります。信仰の仲間に、同じ町の人に、職場に 学び場にいる人に関心を持ちましょう。
主は私たちを、共に主の恵みに与る人たちの中に置いて下さっているのです。
周りの人の目、自分が他の人をどう思うか。他人の目は気になりますね。
彼らは彼ら?自分は自分?独立自尊心を持つことは良いこと。
それは一旦、主にお預けしましょう。パウロも言うように、
「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」共に生きる人たちと共に働かれる主の御手に、心を留めましょう。
主はいつも、私たちを心に留めていて下さるのです。
お祈りいたします。
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