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「忍耐して走れ」

 

20231022 「忍耐して走れ」

士師記7:1-8 ヘブライ人への手紙11:32-12:3            中村文子

 ヘブライ人への手紙11章4節から12節 そして17節から31節は、イスラエル人の祖先と、彼らが経験した出エジプトに関わる人々:イスラエルの歴史上も、聖書の中でも、特に有名な人たちについて書いています。 

11章1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」は、

この章全体のテーマです。この言葉があった上で、11章は「信仰によって」をキーワードにして、旧約聖書の歴史全体を振り返るのです。

 きょう、皆さんと12章1節「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」を通して、「信仰によって走る」ことを

考えたいのです。走る のは、当然ながら 歩く よりもスピードが出ます。

もし足元の地面が不安定だったら、走り出せません。足元が大丈夫でも、目的地がはっきりしないなら。目指すところがバラバラなままなら、それは「競争」にはなりません。12章1節はこの競争が私たちに「定められて」いると言います。私たちにどんな競争が定められているのか。それが「おびただしい証人の群れ」によって、私たちに示されている、とヘブライ人への手紙は言うのです。

 11章13-16節は、旧約聖書に記された人たちは、信仰を持って、でも約束されたものを手に入れられないまま、故郷を熱望していた、と言います。それは地上の生まれ故郷 ではなく、

彼らを造った主なる神の国、天の故郷を目指していた、と。やがて辿り着く故郷を思って、

地上での人生が「仮住まい」であると自覚していたのだ、と。

 現代の私たちも、変化の多い時を生きていますが、情報や技術に守られている私たちには考えられないほど、彼らの人生は冒険に富んでいます。きょう読んで頂いたギデオンたち:士師記や列王記、歴代誌の人々。彼らの「業績」は華々しいものです。33-34節は非人間的とも言える武勇伝、35-38節のほとんどは彼らが受けた迫害の記録。

彼らはそれぞれの時代、それぞれの立場、それぞれの能力や環境でそれぞれの人生を生きました。

彼らは信仰によって主なる神と繋がり、主なる神によって与えられた命を生きることで、

全くバラバラに見える彼らのそのすべてのその歩み 走り?は「信仰によって」、はっきりとした目的地を与えられていた。彼らは同じ ただ独りの神によって、ただ一つの神の国を目指して、

ただ信仰によって、彼らの道を守られ走りとおしたのです。

 士師記7章には、ヘブライ人への手紙に書かれた士師ギデオンが出て来ます。彼が主の御使いに出会った士師記6章で、彼は当時のイスラエルの敵ミディアン人に収穫物を奪われることを恐れて、大きな酒ぶねに隠れて麦打ちをしていました。かなり弱虫だった彼に、主は「勇者よ」と語り掛け、彼が本当の勇者になっていく手助けをしました。

 7章、彼はとうとうイスラエルの兵を率いてミディアンと戦う準備を始めます。このころ、

イスラエルにはまだ王は居らず、きちんと組織された軍隊もありませんでした。

主がギデオンを用いて戦って下さる、と聞いて、イスラエル中から兵隊志願者が集まりました。

その人々を前にしたギデオンに、主が「人数が多すぎる」と言われたのがきょうの箇所です。

この人数で勝つと、あなたたちはこれは自分たちが頑張ったからだ、と思ってしまうだろう、と

主は言われました。実際、そこに集まった人たちは「みんなが行くからボクも行く」と、着いてきた人たち。その証拠に「恐れおののいている者は皆…去れ」と言うと全体の2/3が帰りました。

残った1万人も、主は多すぎる、と、誰を兵としてお選びか、見分ける方法をギデオンに教えました。それは川から水を飲むやりかたです。

水面に直に口をつけ「犬のように」飲むか、片ひざをついて手で水を掬って飲むか。

常に周囲への注意を怠らなかった、手で水を掬う人々300人が、ギデオンに兵士として与えられました。8節にあるように、彼らの敵は目の前にいました。その広々とした敵陣を見ながら、

兵を選び準備する。敵の目を恐れて酒船に隠れていたギデオンとは思えない、勇気と忍耐の居る時だったのです。

 主なる神はギデオンにも、ヘブライ人への手紙に書かれた私たちの信仰の先輩たち誰に対しても、「わたしが共にいる」と約束されました。でも、彼らの中の誰も、主がどのようにして、

自分たち人間をその罪から清め、その咎を完全に赦して下さるのかを知らないままだったのです。

ヘブライ人への手紙12章2節「信仰の創始者また完成者であるイエス…このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

旧約の人々は今も聖書を通して、私たちに信仰生活の困難さと、彼らが与えられた試練に打ち勝つ方法を語り続けています。でも、彼らはその信仰によって開かれた神の国への道が、いかに

素晴らしいものであるかを、知ることが無いまま、この世の生涯を終えたのです。

 私たちは、新約の時代を生きています。

主イエス・キリストが、その生涯と十字架と復活によって示して下さった、神の民となる恵み。

神の子イエスの犠牲によって人間に与えられた、永遠の神の国の国籍を、私たちは知ることができます。勇気ある旧約の先達たちは、神が彼らにだけ与えた約束の言葉を信じて、彼らの道を

走りとおしました。

私たちは恵まれています。主イエスはご自身の血によって開いた道を 私たちが歩くために、

ご自身の霊である聖霊を、道案内に送って下さったのです。

イエスの生涯には、旧約の人々が辿って来た長い信仰の闘いが凝縮しています。

何も知らない赤ちゃんとして生まれたイエス。行く先も知らず旅立ったアブラハムやモーセたち。

「信仰によって」明確な目的地と確かな主の守りの御手を、いま、私たちは聖霊によってお示し頂いています。ギデオンが敵の目の前で、恐れと不安の中でも忍耐し主の導きと守りを信じ続けたように、長い信仰の道を走り出す力を、私たちも頂いています。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」私たちには、見上げるべき主イエスの十字架が与えられているのです。

お祈りいたします。