20231029 「良いもの」
創世記1:24-31 コロサイの信徒への手紙1:15-20 中村文子
私たちの聖書の、一番最初。創世記では、この世のすべて 宇宙のすべてが神によって造られていく様子を見ることができます。まず 光が創造され、大地や海が創造されていく。
そのたびに書かれる言葉が、「神は見て、良しとされた」です。
本日の箇所の31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあり、2章1節の「天地万物は完成された。 」という箇所に繋がっています。
なぜ、神が天地万物を造られたのか。出来上がっていく様子を見ることは出来ても、創造の理由は創世記には書かれていません。
神はただ淡々とすべてのものを造り上げ、そのすべてを「良いもの」だと祝福されました。
書かれなかったその理由を、コロサイの信徒への手紙1章はこう言います。
「万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
この御子イエス・キリストは「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方」なのです。コロサイ1章はさらっと書いていますが、万物より先におられた神である方が、死者の中から生まれた。ということは神である方が一旦、死なれたわけです。そして、創造の神は「御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」のです。
御子イエスは三位一体の神。神がせっかく良いものとして造った万物が、神ご自身と和解するために、神である御子が一度死ぬほどの犠牲が必要。
21節に「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」
とあります。 何が私たちを神様に敵対させてしまったのでしょう?
私たちの周りにはみんなが疑問や不満を持つ問題が沢山あります。
環境問題。経済も。どの問題も一朝一夕には片付きません。
耳にする言葉や情報に困ったなと思う時、もちろん、調べて検討して解決することもあります。
でも、犯罪のニュースや、いじめ事件のたびに加害者の生育環境や性質が話題になります。
あの人が いじめる側になったのは、あの人が犯罪者になったのは、
そんな環境なら、そうなっても仕方ない。
それが友達でも、有名人でも、政治家でも、あの人があんな嫌な状態になるなんて。
きっと、受けて来た教育が悪いんだ。家庭環境が悪いんだ。たぶん、今の時代のせいだ。
今の問題、今の不満をあきらめるための理由を捜すことが、私たちはかなり上手なのです。
だって、人間だもの、と。
最近、ショックなことがありました。ある人が問題を抱えている、と聞いたのです。
その人がこれまで、悲しく辛い経験をしてきたことは知っていました。でも、明るく振舞う様子を見て、心配することを止めてしまっていたのです。もっとその人のために祈るべきだった。
もっと寄り添うべきだった。少しその人の立場に立てば、隠して持っている心の傷がどれほど
大きいか、気づくことも出来たはず。なぜもっと愛ある対応ができなかったのか。
まるで いじめが起きていると知っていて、傍観して何もしなかった時のように。
その人の性質なのだと、諦め、そのままに放置してしまった私に、主は あなたも加害者だ、と示して下さいました。せっかく、主なる神は私たちを良いものとして造って下さったのに。
とりなしを祈る時、「気づかずに犯してしまう罪」のため 祈ることがあります。
私たちは神である方とは違い、永遠の存在ではありません。見えるもの、理解できるものに限界があります。本当に良いもの、真実なものに、私たちはなかなか気づきません。
万物を創造なさった時、主は「すべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
なぜそれが 「良いもの」であるとお判りになるのか。それは神である主が、全てのものの基準であり、神こそがすべてのものの「良い」状態をご存知だからです。
主は私たち人に、創造されたすべてを与え「従わせよ、支配せよ」と言われました。
神が良いものとして造られたものを与えられた。主は私たちを祝福されました。
大きな責任と信頼を私たちに与えた主は、私たちを重圧の中に放置される方ではありません。
「良いもの」として造られていながら、真実 「良い」方である神に求めないこと。
すべての源である方に期待せず、いろいろな理由をつけて 問題を放置し諦めてしまうこと。
それは主なる神の方を向かず、神に近づこうとせず、神から離れていくこと。
神に敵対することなのです。
私たちは傷ついています。私たちは痛んでいます。私たちは病を抱えています。
それは、医師や医療によって直す病だけではありません。私たちの癒されていない痛み苦しみ。
それが、私たちの罪なのです。
私たちの救い主なる神、御子なるイエス・キリストは、十字架によって主なる神と和解の道を開いて下さったのです。
だって、人間だもの。この言葉を、諦めではなく希望に満ちた挑戦の言葉にしたいと思います。
確かに私たちは限界のある人間。でも、主なる神によって造られた天地万物の中の一部。
神が「それは極めて良かった。」と言われた存在なのです。
イエス・キリストが開いて下さった平和の道。この道は、私たちが主なる神に近づく道。
そして、神の霊である神 聖霊が私たちに近づき、私たちの内に来て下さる道なのです。
私たちは毎日のように問題にぶち当たり、傷つき痛みます。
その度、私たちの抱える この罪と言う病を癒すために、主イエスは全力で取り組まれます。
主は私たちが癒され与えられる完全な姿を知っているのです。だって、三位一体の神は創造の神。この方が私たちを良いものとして造って下さったのですから。
お祈りいたします。
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