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「聖めて接ぐ神」

 

20231203 「聖めて接ぐ神」

イザヤ書52:7-12 ローマの信徒への手紙11:13-24         中村文子

 ローマの教会で、パウロの手紙を受け取る人々のほとんどは、ユダヤ人ではありません。

ローマはギリシアと並ぶ偶像崇拝の国であり、さらに新約聖書の時代、ローマはローマ帝国皇帝の居る所。皇帝は神の子と呼ばれ、権力者であるだけでなく神として崇拝される存在でした。

私たちの住む日本の、太平洋戦争終結前の政治体制と似ています。

冬至のローマ人も日本人も、聖書の歴史が自分の民族の歴史ではないという点で、この手紙を

受け取る側として読むことができる。私たちも、聖書の言う異邦人 です。

 パウロはローマの市民権を持つローマ領生まれのユダヤ人です。彼はキリスト教徒を迫害していた最中に復活のイエス・キリストに出会い、回心しイエスの福音を宣べ伝える者となりました。

使徒言行録18章、パウロは福音を聞こうとしないユダヤ人たちに言いました。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

パウロは異邦人への伝道者の立場を神が自分に与えた役割として光栄と思っていますが、

自分の同胞であるユダヤ人が、自分と同じようにイエスを救い主として信じ救われることを心から願っています。ユダヤ人ならば、自分たちこそが神に選ばれた神の民だと考えている。だから、異邦人の方が先に神の真理に近づいた、先に救われた、と知ったら、きっと 妬む。

彼らの中には、嫉妬に駆られて主イエスの救いに与る者もいるに違いない。

だって、彼らはこのパウロと同じ、へそまがりで嫉妬深いユダヤ人なのだから。

 「では、私たちが救われるために、ユダヤ人たちは捨てられたのですね!」

「ユダヤ人たちが神から捨てられたことで、世界にイエスの福音が伝わったのですね!」

と、あなたたちは言うでしょう?そう。パウロが栽培されたオリーブの木が、ユダヤ人です。

旧約聖書を見れば、神がいかに大切に神の民ユダヤ人を育てて来たかがわかります。

日本でキリスト教禁教令が撤廃されたのが1873年 明治6年。まだ、150年。

昭和の頃、明治期に生れた3代目クリスチャンだという100歳の信徒がナザレンに居られました。禁教が解けてすぐ、その方の親・祖父母・曽祖父母が同時に受洗した結果だとお聞きしました。

長崎には禁教の時代にも信仰を持ち続けた人々が居た、という記録はあります。

ローマ人がクリスチャンになったのも、私たち日本人の中にキリスト教信仰があることも、

ユダヤ人=イスラエル人が神と共に歩んだ聖書の時代があったからこそ。彼らの歴史無くして、後のキリスト教の歴史は成り立ちません。

私たちも、神の育てたオリーブである神の民のひと枝に、接ぎ木された者です。

神は私たちを選び出し、イエスの十字架によって罪を赦し、神の民として接いで下さったのです。

枝を接いで下さったのは、主なる神です。接いで育てて下さったのは主なる神です。

ヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 イザヤ書52章7節は、伝道者の働きとして語られる所です。

もし、敵が攻めてきたら、都の中にいる人々に知らせることができるように、見張りは、傷ついた民のいる神の都エルサレムの外に立ちます。その見張りが、良い知らせを聞いたのです。

「あなたの神は王となられた」そして、彼らは主なる神が帰って来られるのを見るのです。

廃墟となった都。でもそこに王が立つならば、復興が始まります。

王が帰って来られる。それは戦いに負け、滅びたと思った国が再建される知らせなのです。

 神を信じ従う民を、主は必ず守って下さる。それなのに、神の都エルサレムが廃墟となったのは、エルサレムに居た民が主なる神を捨て、背いたからです。

新約でローマの人々が異邦人と呼ばれるのも、日本人が聖書の言う異邦人であるのも、

天地万物を造られた真の神を礼拝しない民、真の神を神としない民だからです。

ローマ人への手紙の中で、ユダヤ人は主なる神が遣わした救い主イエス・キリストを受け入れず、

「枝が折り取られ」て「捨てられ」てしまいました。

異邦人たちはイエスの福音に依らない「野生のオリーブ」の生き方から「折り取ら」れ、

接ぎ木されました。傷ついているのです。折り取られた者も、接がれた者も。

あの、廃墟となったエルサレムに立つ民も。

 主は、傷ついた者、廃墟となった都を選んで、慰め、買い戻して=贖って下さいました。

接ぎ木され新たに接がれた木から栄養を受ける、という試練もありますが、

新たな幹からの栄養=神の恵みを 喜ぶことによって、この試練を乗り越えるのです。

なぜ、傷ついた者、廃墟となった町を 主は贖われるのか。

主がその人を その町を、愛しておられるからです。

イザヤ書43章「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…わたしは主、あなたの神イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。…

わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し…あなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。」

傷ついている。痛んでいる。壊れてしまった。記憶は、私たちの足を止めてしまいます。

でも、私たちを今の枝に接いで下さったのは、神なのです。

もう、自分自身の汚れた過去を振り返らなくて良い。慌てなくて良い。

私たちはもう、新たな親木から栄養を受け取っているのですから。

「しかし、急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。

あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」

 きょうは待降節第1主日。救い主の降誕を喜ぶ季節です。私たちの王が生まれます。

私たちが主を知るずっと前から、救いの計画を始めて下さった主は、そのしっかりした根と幹を通して、豊かな栄養を与え続け 最後まで 愛して 共に居て 助けて下さる方です。

お祈りいたします。