20231217 「秘密は明らかに」
マラキ書3:19-24 コリントの信徒への手紙一4:1-5 中村文子
パウロはコリントの信徒たちにこう言いました。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」
この手紙はコリントの教会の信徒たち宛てです。彼らはイエス・キリストを信じて教会のメンバーになった人たちです。ですから、「キリストに仕える者」はその通りなのですが、彼らが委ねられた「神の秘められた計画」とは何でしょう。パウロはこの計画の管理者は忠実であることを求められる、と言います。そして、裁く・裁かれる、やましい・やましくない。何のこと?
この手紙を書いた頃、ローマ帝国やこの当時の権力者に対して、イエスへの信仰を持つことは反逆であると「判断」され、イエスの弟子たち信徒たちが逮捕されることもあり、パウロたちの周りではクリスチャンたちの立場が次第に厳しくなっていました。
「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を
明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」パウロは裁くのは主なる神だと言います。
裁く・裁かれる。とは、判断する・判断される、と同じほどの意味ですが、裁くにも判断するにも、公平公正であるためには、正しい基準、明確な計りが必要です。
何をどんな基準で判断するのか。聖書全体に、その答はあります。
その中から、きょうは旧約聖書の最後に編集されている短い預言書。マラキ書を開きます。
この中で、イエスがバプテスマのヨハネについて預言した箇所として、マタイによる福音書17章10節や マルコによる福音書9章11節で弟子たちに教えた箇所が、3章23-24節です。
「わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」
ヨハネが何をするのか。それはヨハネの父ザカリヤに天使が伝えた言葉にあります。
「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」ルカによる福音書1章17節
なぜ、ヨハネが「前に」来る必要があったのか。
それは、「義の太陽が昇る」から。
まるで太陽が天空高く昇りすべてを照らし、地上の誰も太陽がそこにあることを、疑うことも
否定することもできないように、
主が地上に来られたなら、何が義=正しいこと なのかが 主によって明らかになるから。
神が創り出された全てのものが、その 義によって 判断される。裁かれるから。
そして、高慢になって「神などいない」という者、「自分こそ神だ」と言う者、
神の御心よりも優先すべき物事がある、と言って、主なる神を蔑ろにする 悪い者。
彼らの企ては、義の太陽の 絶対の基準 の前で、空しくなる。
まるで、火に投げ込まれたワラが、何も残さず燃えて、消えて無くなるように。
主はまず、「預言者エリヤ」=バプテスマのヨハネを遣わし、彼らが空しく消えることが無いよう、準備をさせた。それで、ヨハネは洗礼を受けに来た人々に言ったのです。
ルカによる福音書3章7-8節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」
けれども、主なる神を畏れ仰ぐ者たち「わが名を畏れ敬うあなたたち」にとって義の太陽は、
裁き滅ぼすもの ではなく、いやす力 なのです。主の御名に従う者たちは、義の太陽の出現によって、まるで牛舎から連れ出された子牛が、野原で喜び「躍り出て跳び回る」ように、
癒され喜びと感謝に満ち溢れるようになる。
神が私たちに与えて下さる 完全にして絶対の基準は、その輝く光の前に出る者たちを、
明確に分ける。主なる神の御前で私たちの内にも、燃やされ消え去るものと、癒され強く元気に回復され、喜び跳ね回るものがある。
燃やされることを恐れても、義の太陽の輝きから逃れうるものはないのです。
私たちの内に、どちらもあると思います。燃えつきるワラと喜びに湧きあがる力が。
義の太陽を怖れ 逃げ出す時、そこにあるのは、何とか自分自身を守ろうとする心。
自分の思いを優先し、主なる神から目を逸らす。主に背を向け 光よりも闇を愛する心。
主は私たちが弱く、自分の力で立つことのできない者であることを、ご存知です。
だから。主の前では必ず私たちの弱さ愚かさは明らかになるという秘密を知らされているから。
主は、信仰によって御前に進み出る者を受け入れて下さる、と、知らされているから。
主が私たちを愛するがゆえに、私たちの上に義の太陽を昇らせ、
弱さも 傷ついたところも、完全に癒して下さる。そのために、義の太陽そのものである、
救い主イエス・キリストを、地上に送って下さった。そのことを、
聖書を通し 信仰を通して示して下さっているから。
この秘密の御計画を主と共に実現して行く者として、私たちは忠実を、求められているのです。
バプテスマのヨハネが、救い主イエスを弟子たちに示して行った言葉が、きょうの礼拝の
招詞です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
イエス・キリストは、神の力によって人間のすべての企てを明らかにする義の太陽であるのに、
力づよい英雄として、ではなく、小さく 柔らかく あたたかく、弱い、
一人の小さな赤ちゃんとして この世に、生まれ出て下さいました。
主イエスが十字架で死と滅びを引き受けて下さったので、私たちは罪から清められました。
裁きの日を前に、救われた者たちを、ご自分の子として受け入れて下さる神と、
主なる神を父と呼ぶ者とされた私たちの心は向き合う。世の初めからの計画を、私たちは主と
共に管理し、行って行くのです。
その日まで、忠実に、先走ることなく。義の太陽を待ち望みましょう。
お祈りいたします。
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