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「選び喜び迎え入れる」

 

20240107 「選び喜び迎え入れる」

イザヤ書42章1-9節、エフェソの信徒への手紙2章1-10節           中村文子

 イエスさまがこの世に生れて下さったお祝い。それがクリスマスでした。

イエスさまがこの世に来て下さったのは、私たちの罪を贖うためと、私たちは聞いて来ました。

赤ちゃんイエスさまがではなく、大人になり福音を伝えて下さったイエスさまが、十字架に架かって死んで、私たちの罪は赦されたのです。ではなぜ、イエスさまは死ななくてはならなかったのでしょう?人として世に来られたけれど、神の子なら、死ななくても良かったのでは?

 パウロはエフェソの信徒たちへの手紙で、信徒たち つまり私たち人は自分自身の過ちと罪のために死んでいた、と言います。

私たちは今もこれまでも呼吸し動き、体温も温かく生きている人間です。

その私たちが死んでいる、とは。 生きている人と死んだ人の大きな違いは、自分の身の回りで起きることを感じられるか られないか。生きていれば、耳は音を拾います。目は光や物を見分けます。肌は風を感じ、気温も感じます。命ある人が感じるすべて。

味覚も嗅覚も、死ぬと働きません。 「あなたがたは、死んでいた」生きていれば感じられるはずの感覚を、私たちの魂は失っていた。神が私たちに注いで下さる愛も、私たちに与えて下さっている恵みも感じない。神が本当に居るのかいないのかもわからない。なぜ、自分がこの世に居るのかもわからない。わからない動けない問題を、自分では解決する方法も 力も無い。

それは、私たちの魂が 死んでいたから、なのです。

 でも、私たちにも欲はあります。欲しいもの。食べたいもの。見たい聞きたい行きたい。

心は色々な物事に惹きつけられる。意欲があるのは生きている、ということではないの?

パウロはその心の動きは「この世を支配する者」に「従っていた」のだと言います。

「不従順な者たちに今も働く霊」とは、サタンとか悪魔と呼ばれる霊のこと。

サタンを「空中に勢力を持つ者」と呼ぶのは、創世記1章7節 主なる神は大空=天地の間「空中」と呼ばれる所、を、創造された時だけ、「良しとされた」という言葉が無い。創世記の創造の記事を研究する人たちは、新約の時代すでに

「神が良しとされなかった大空」=「空中」は、サタンが勢力を持つ所、と考えていたのです。

 神は創造の時、人の鼻に命の息を吹きこみ、生かしました。それなのに、

人は神に背き、神の言葉を聞かない。命の源である神から離れ、魂が死んでしまっていたのです。

イエス・キリストは神なのに人となり、罪の無い清い方として私たちの罪の身代わりになることができた。でも、人として生まれて、イエスは私たちと同じように「死ぬ」者、命に限りがある者となっていました。イエスは十字架に架かられました。そして、死にました。

魂が死んでいる私たち人間。人の罪の身代わりに、死んだ神の子。

このままでは、だれも生きて永遠の神のもとに行くことはできません。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」 救いとは何か。それは

2章10節「…わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」 

イエス・キリストは、十字架で死んだ後、復活されました。ただ生き返ったのではなく、

もう一度、イエスご自身、神によって生きた者として創り出された 再創造されたのです。

死んでいた私たちも、イエスの身代わりにより、イエスと共に命ある者へと再創造されました。だから、私たちは知ることができる。感じることができる。神がすべてを造り、すべてによって私たちへの愛を示して下さることを、わかる。命の力を与えられたのです。

 では、イエスとはキリストとはどんな方でしょう。主なる神が選んでこの世に遣わし、ご計画のすべてを成し遂げるために、支えられた方。イザヤ書42章に詳しく書かれています。

イエスこそ主がその霊を置いた方。

この方は叫ばない。  悲鳴を上げ失望し泣くことの無い方。

呼ばわらない。呼ばわる、は宣戦布告をすること。イエスは人にも国にも敵対しません。

イエスが 神が 敵対されるのは、人でも民族でも無く 罪に対してだけ です。

声を巷に響かせない。

広く世の中に声を響かせる、とは、広告宣伝をすることです。

絶望せず、敵対せず、自分を認めてもらおうとアピールすることのない方。

この方は「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」

痛む者、弱った者の傷を包み、力を失った者を倒れないように支える方。

「裁きを導き出して、確かなものとする」失われていたものをあるべき場所に導き、しっかりと据え置く方。この方を島々が 神が人を住まわせた土地そのものが、待ち望んでいます。

なぜなら、この方の裁きは確かで、正しく、愛に満ちているから。

 聖書が語る罪とは、あるべきところに無いこと。

人が神の声を聞く力を失い、魂は命を失い死んでいる。それを主が望むわけがありません。

神がイエス・キリストを選び世に送られたのは、人が本来あるべき場所、あるべき姿を

取り戻すため。さらに人を、キリスト・イエス 救い主なるイエスと共に、

もっと、神の近くに 神の国に 喜んで迎え入れるため、です。

 人は神と共に居ることを、神が望んでおられる。でもそれは人間にそれに相応しい功績があるからでも、尊い徳の高い存在だからでもありません。

ただ「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛し…わたしたちをキリストと共に生かし…共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 」

人 自らの力ではない。ただ神の恵みによるのです。

 神がどうしても私たちに与えたいと願われた恵み。神は私たちを呼びよせ迎え入れただけでなく、私たちの内に さらに近くに ご自身の霊である聖霊を住まわせました。

神が私たちを選び 喜び 迎え入れたように、私たちは神の霊を 喜び迎え入れる。

それによって、私たちはイエスと共に死の力を乗り越える。神の憐れみによって、私たちは、

神が私たちに用意された永遠を、神と共に生きる命を、自分の中に、迎え入れるのです。

お祈りいたします。