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「来て見なさい」

 

20240114 「来て見なさい」

サムエル記上3章1-10節、ヨハネによる福音書1章43-51節           中村文子

 イエスの12人の弟子の1人、ナタナエルがイエスに出会った時の事は、ヨハネによる福音書だけに書かれています。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という言葉は、よくナザレン教団の内外で自虐的に または 侮辱的なネタとして使われます。        現代のナザレン教団がどうか、は さておいて、

ナタナエルがどんな意味でこの言葉を言ったのか、気になるところです。

 彼をイエスのところに連れて行ったフィリポ。ペテロ アンデレ兄弟と同郷、ガリラヤのベトサイダ出身。ナタナエルはガリラヤのカナ出身と、ヨハネが福音書21章に書きました。ナザレも、ガリラヤ地方。

フィリポはイエスをナザレ出身とナタナエルに紹介しました。

 ガリラヤと言えば。十字架に架かる前、ペトロはゲッセマネで逮捕されたイエスの後を追い、大祭司の家の庭に行った事がマタイ26章 マルコ14章 ルカ22章にあります。その時、「ガリラヤ訛り」を理由に、人々はペトロをイエスの仲間だと言いました。彼らはエルサレムで田舎者扱い。救い主誕生の預言とされるイザヤ書8章は「 先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」と。ガリラヤ地方は異邦人の地と呼ばれたのです。

 マタイがイエス誕生を書いた2章で引用した預言者ミカの書も、ナタナエルはよく知っていました。

ミカ書5章1節「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」 

ナザレから尊い方が現れるわけがない。そんな彼にフィリポが言ったのが「来て見なさい」です。

フィリポはすでにイエスに出会った。「わたしに従いなさい」と声を掛けられ、すでに確信していました。

イエスこそ、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」だ。

イエスがナザレの人であることは、フィリポには何の障害にもなりません。

ナタナエルがフィリポをよく知っていたことがイエスに会いに行く力になりました。

 きょうの旧約聖書はサムエルが生まれてはじめて主なる神の声を聞いた時の事。

サムエル記上1章~2章には、サムエルの母ハンナの祈りと、イスラエルの祭司の、主なる神の御心から外れた行いが書かれています。 

祭司エリの子ホフニとピネハス兄弟は、祭司でありながら「ならず者で、主を知ろうとしなかった」。

高齢となった祭司エリは、息子たちの悪行:供え物の強奪や幕屋に仕える女性たちとの関係などを諫めましたが彼らは聞く耳を持ちません。

ハンナは乳離れしたばかりの息子を主に委ねるため、神殿の祭司のところへ連れて行きました。

エリは彼女が熱心に神に祈り、この子を与えられた経緯を知っています。

サムエル:その名は神 と名付けられた子を守り育てる。それが、主がエリに与えた役割だったのです。

 目が見えなくなった高齢のエリに代わって、少年サムエルは神殿のともし火を守る働きをしていました。この子は夜、自分の名を呼ばれて目を覚まし、エリのところへ急いで行きました。

神殿の中で、自分の名を呼ぶ人はエリだけだ。何の疑いもなく、3度にわたって「ここにいます。お呼びになったので参りました」と言うサムエルに、エリはとうとう、主がこの少年に呼び掛けた、と悟りました。

いま、この神殿の中に居るのは、主なる神とサムエルとエリだけ。自分と少年以外に、この子の名を呼ぶ方が居る、ということをサムエルに教えることのできる者は、エリしかいません。

サムエルに、エリは伝えました。「もし、また呼び掛けられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」 エリがどんなに祭司として相応しくない者であっても。エリの家がどんなに主なる神の御心に適わない、汚れた者であっても。主がこの子を導くために置かれたのは、エリでした。

この後、サムエルが聞いた主の言葉はエリにとって、サムエルにとっても、たいへん厳しいものでした。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」

エリは主が選んだ預言者サムエルによる預言を、最初に聞く者となり、それを受け入れました。

  自分もフィリポも、どうせガリラヤ出身者だ。モーセも預言者も、自分たちの故郷を良くは言わない。フィリポがナタナエルを導いた時、自虐的だったナタナエルはイエスの言葉に驚きました。

「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 

イスラエルでラビ:ユダヤ教指導者たちはよく、いちじくなどの木陰で聖書の学びを行いました。

ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見た、と言ったこのイエスは、自分のこれまでの学びを知っている。フィリポはこの人に出会ったのだ。だから友は自分を連れて来たのだ。

ナタナエルはイエスのところに 来て、イエスを見た。そして

彼は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」から

「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」に変ったのです。

 「来て見なさい」と、主の御前に導く。そして 「僕は聞いております。主よお話しください」と、

神の御声に耳を傾けさせる。その人の魂を救い、主の恵みを受け止める者とする。

その時、導かれたのはたった一人の人かもしれません。

しかし、主の御声を聞いたサムエルはエリに代わる預言者としてイスラエルを導き、

ナタナエルは12弟子の1人に。イエスと共に主に仕える者となりました。

主は目の前にいるあなたに、大切な友を委ねます。その一人の魂を導く働きを、私たちに委ねられます。

フィリポが、自分の確信と喜びによってナタナエルを導いたように。

エリが、自分自身の罪や汚れを乗り越え、主の用いて下さる御手に従ったように。

私たちも主を信じ、主を喜び、大切な人にイエスを伝えるのです。「来て見なさい」と。

お祈りいたします。