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「喜びを得る」

 

20240128 「喜びを得る」

ヨブ記22章21-31節、ヨハネの手紙二1-11節             中村文子

 ヨハネの手紙を書いたのは誰でしょう。このヨハネは福音書を書いたヨハネとは別人で、

書かれた時期も福音書ややはり使徒ヨハネが書いた黙示録の書かれた時期とは違う、と、研究者は言います。書かれた年代は紀元80年頃から180年頃と諸説。いづれも迫害の頻発した頃です。

でも、私たちがここで知りたいのはこの手紙がいつ誰に書かれたか、ではなく、聖書の中のこの手紙が、私たちに何を語っているか、です。

「長老」とは、教会の指導者。まだ1教会1教職の制度は無く、伝道者は巡回していました。

では、この手紙を受け取った婦人たち その子たちとは誰でしょう。書いた人が判らないのですから、「婦人たち」が個人なら、「わかりません」と言うしかないでしょう。が。例えば、

ヨハネの黙示録17章で、王たちを偶像礼拝に引き込んだ、神の御心に適わない異邦の国バビロンを罪深い「大淫婦」:「大変破廉恥な浮気者の女」と呼び、真の神への信仰を捨て偶像礼拝をした王たちのことを、本来の夫から他の男たちに浮気した人々と呼んでいます。旧約イザヤ書では、異教の礼拝所となったエルサレム=シオンを「遊女になった」と表現します。・・・

誠に以って、女性として生まれた者としては嘆かわしい表現だと思いますが。

つまりこれも諸説ありますが、「婦人」という表現は人間というより、聖書が旧約でも新約でも、国や都市、教会を女性として扱う前例があることから、「婦人」は教会を指す。「子供たち」は、教会の信徒メンバーを指す、と考えられます。・・・迫害の中での配慮でしょうか?

きょう、この説に沿って考えたいと思います。

 この手紙を長老が書いたのは、7~11節にあります。「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」「人を惑わす者」イエス・キリストが人間としてこの世に生れて下さったことを、否定する人々が出て来て広めた、危険な考え方から、信徒たちを守るためでした。

「神が人間となってこの世に来た、などという考え方は神に対して無礼だ。イエスが人々の前に現れたのは神の聖なる霊として、であるし、イエスが十字架で死んだ、などと!

神が死ぬなんてことがあるはずがない。それこそ神を冒涜している!」と、言って、

人を惑わす者がいたのです。この考え方はグノーシス主義と呼ばれています。

この手紙のころ、12使徒を始めとするイエスと直接出会った人々は既にこの世を去り、

信徒たちは使徒たちの教えや手紙によってだけ、イエスの福音を知る時代となっていました。

 ちょっと聞くと、もっともらしく聞こえます。確かに神が人となるはずはない。

でも、だから、イエスの降誕は奇蹟なのです。イエスが確かに人として世に来られ、十字架で血を流して死んで下さったから、私たちの罪の身代わりなのです。そして墓から肉体をもって復活し、天に昇られたので無ければ、主イエスが復活と昇天によって死と滅びを滅ぼし、無力化したことにはならない。      もし、イエスが人として死に、人として復活したので無ければ、

もし イエスは神であるから 死なない。霊として来られただけ、という説が本当だと言うなら、

旧約の預言も、福音書の記述も、すべて絵空事になります。それでは私たちの罪の贖いは無い。私たちは死ねば滅ぶ者のまま。私たちの信仰には、何の力も無いことになります。

そんな教えは福音では 善い知らせでは ありません。

 ですから、長老は言うのです。惑わされるな。キリストの教えに留まれ。初めからわたしたちが持っていた掟を。互いに愛し合う、ということから離れるな。愛に歩め、と、言うのです。

 ヨブ記22章エリファズは、友人ヨブに「神と和解せよ」「立ち帰り不正を遠ざけよ」と言う。

彼は何がヨブの問題と言うのでしょう。彼が黄金を 金を 置け、と言った塵の中。川床の砂。それは、神が人を造る材料にしたと聖書が言う「土の塵」です。

ヨブは、自分は神に尊ばれていた者、自分は神にとって金のように尊い者、と言って来ました。

友はヨブに言うのです。高慢さを捨てよ。すべてを神のもとに帰せ。

あなたがあなた自身ではなく、全能なる神を自分の宝とするなら、真の喜びを得ることができるのだ、と。  

ヨブ記の終わりヨブは神の前にへりくだり、友人のためにも祈る者となります。

エリファズがヨブに言ったように、貴いのは神を信じている私たちではなく、私たちを造り上げ、私たちに命を与え、私たちに信仰を与えた神なのです。

唯一にして全能なる神こそが、真の喜びの源です。

 福音が理解できないから。奇跡が起きたなんて信じられないから。だから そんなことは起きなかった、と言うのは、間違いです。それは神を神としないこと。罪です。

自分の頭で考えることができないからと言って、神を人間のサイズに縮小し、

神を 神が居られる天から、人の位置まで 無理やり引きずり下ろす。

神と 神につくられた自分を同等に扱う。これこそ 冒涜の罪です。

 今、私たちは、私たちの言葉に翻訳された福音書や手紙によって、イエスの教えを知る者です。

「婦人たち」「子供たち」、人を惑わす者が大勢世に出て来た。彼らはキリストに反する者だ。

「気をつけて、私たちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」

と長老が書いた時代以上に、危険な時代に私たちは居ます。

 掟どおり、真理に歩む。互いに愛し合うこと。愛に歩むこと。

私たちが「互いに愛し合う」のは、人間同士のことだけではありません。

神は初めから、私たちを愛していて下さるのです。

自分の知恵や理解力、世界観などを規準に、神を縮小するのではなく、

すべてを超えた神という方をそのまま信じ、受け入れ、愛する。

神が行われる御業を信頼し、喜ぶ。それが 本当の喜びを得る、たった一つの方法:道なのです。

お祈りいたします。