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「試す」

 

 

20240218 「試す」

出エジプト記17章1-7節、マタイによる福音書4章1-11節        中中村文子

 イエスは荒野に行ったのは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたすぐ後です。

イエスが水から上がると聖霊が鳩のように彼に降り、そして天から声が聞こえたのです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

ヨハネは後に、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子である」と証ししました。

 イエスは霊に導かれて荒野に行き、40日間、断食しました。この40は、イスラエルの民の

出エジプトの旅をなぞっています。イエスはこの時、申命記を学ばれたようです。

イエスはサタンと、申命記の言葉:によって、対話し闘いました。

イエスの受洗は、悪魔=サタンも知っていて、イエスに話しかける時、「あなたが神の子なら」と、2つ質問をしています。まず、サタンは空腹なイエスに、「そこの石に、『パンになれ』と命じてはどうです?あなたはその力があるでしょう?」 イエスは、ちょうど私たちが先週 学んだ、申命記8章3節で応えました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 

 次にサタンはイエスを神殿の屋根の端に立たせました。こんな高いところから落ちたら死んでしまう。人として生きておられたイエス。

サタンは詩編91篇11-12節「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る」を引用し「飛び降りたらどうだ」と誘惑しました。サタンさえも聖書を引用する。これはとても恐ろしい。私たちはつい「聖書に書いてあるから正しい」と判断してしまいます。

それは必ずしも正しい判断とは言えません。自分の意見を正しく見せようと聖書を「使って」はいけない。聖書を神の御言葉として読むには、聖書を通し語られる主なる神の声を 謙虚に聞く必要があるのです。

 イエスは、ここでは申命記6章からの引用でサタンを退けました。

「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」。

 イエスが引用した申命記6章16節「あなたたちがマサにいたときにしたように、

あなたたちの神、主を試してはならない。」は、きょうの出エジプト記を指します。

 17章、エジプトを出て約束の地へと向かうイスラエルの民は、主の命令により レフィデムに宿営します。イエスが主の霊に導かれて荒野に行ったと同じです。 レフィデムには、飲み水がありません。民は12章37節によると 壮年男子だけで60万人。全体で100万人ほどは居たでしょう。荒野で水が無い。命の危機、民族の危機です。

 民は、モーセに喰ってかかりました。「我々に飲み水を与えよ」「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。…渇きで殺すためなのか。」「主は我々の間におられるのかどうか」

民は主なる神の存在さえも疑い、モーセを見ています。いま、民はのどの渇きで苦しみ、死を恐れています。主はここに飲み水が無いことをご存知です。

モーセは民に言いました。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」

そして主に叫びました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」

 主は民の長老数名をモーセに同行させました。彼らは目撃証人となります。主はモーセに、

あの杖を持って行くよう命じました。エジプトで大河ナイルを打ち飲めない水にした杖。海に向って指し伸ばし、民が紅海を渡る道を開いた、あの杖。

主はホレブの岩に立ち、モーセは主の指示通りその岩を打ち、水を出すことができました。

水が出たこの土地を、モーセは「マサ(試す)とメリバ(争う)」と名付けました。

 民は主の命令でここに来ました。主イエスは主の霊に導かれ、荒野に行きました。

なぜ行く。なぜ、主は導く。なぜ地震は起きる。なぜ災害がある。なぜ戦争は無くならない。

その根本的な理由を知るのは、主なる神お一人です。

申命記8章に「主はあなたを苦しめ、ご自分の戒めを守るか知ろうとされた」と書かれたように、

もし主がその理由を知らせようとお考えになれば、主が選ばれた時に、明確にして下さいます。そして、なぜ と問うよりも、大切なことがあります。

詩編102篇19節「主を賛美するために民は創造された。」

ヨブ記1章21節「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ。」

エフェソの信徒への手紙2章10節「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、

神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」 

さらに主イエスはマタイ19:17,マルコ10:18,ルカ18:19で、言われました。

「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」 

神を疑う時、私たちは神を都合良く道具にしようとしています。そこに信仰はあるのでしょうか。

 サタンはイエスにこの世のすべての栄華と繁栄を見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。

サタンは人間の不安を、主なる神に依らずに解決できる、と誘惑します。

石をパンに変える。空腹という健康上の不安の物質的解決です。高い所から飛び降りてみる。

それは目に見えない神を、奇跡によって知ろうとする事。自分の思いを優先し、神が与えて下さった命を軽く扱うことです。 サタンを拝みこの世の繁栄を選ぶのは、神に期待せず 自分の判断を優先する背信であり、偶像礼拝です。

 モーセは主に問いかけました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。」

イエスは言いました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 神は私たちの罪をイエスの十字架によって救い清め、神の子として下さいました。

疑い試すのではなく、神を神として「主はきっと助けて下さる」と信じ、子として期待し願う。

私たちの祈りを、主は喜び受け止めて下さいます。

お祈りいたします。