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「まっすぐ仕える」

 

202400303「まっすぐ仕える」

ヨシュア記24章14-24節、ガラテヤの信徒への手紙4章11-21節    中村文子

 ガラテヤ4章10節でパウロは言いました「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」。きょうは3月3日桃の節句。この日を含め、日本では季節の変わり目に五節句を;七草がゆ、ひなあられ、柏餅、お団子、菊の花:祝います。どれも「悪いものを取り込まない」ため。無病息災・厄払いの儀式です。一般的に『やっておいた方が良いこと』『季節を感じる事』として行われています。宗教が習慣に根付いています。

 日本の宗教は生前、功績のあった賢い有能な人を神として祭って来ました。その『尊い存在』を怒らせないよう「触らぬ神に祟りなし」祭の時以外、関わらない方が幸せとされ、

ご神体は通常は隠されています。厄年など、災厄を防ぐために行う儀式や習慣が多いのです。

 私はクリスチャンだから、自由で良かった?

パウロはガラテヤ4章9節「今は神を知って…むしろ神から知られているのに、なぜ…支配する諸霊の下に…もう一度…奴隷として仕えようとしているのですか」と、信徒たちに言いました。

ガラテヤにいたユダヤ人クリスチャンたちも、他の宗教の習慣は不自由だ、窮屈だ、と思っていて。でもまだ、彼らを縛り付けるものがあったのです。

 イエスの福音を、ガラテヤの信徒たちも一度は受け容れ信じました。彼らは神に愛され、神の教えを伝えるパウロをまるで「神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように」受け入れました。そして彼らは、パウロの目の病気?のため「できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとした」ほどの 愛を示したのです。

この熱意に感動したパウロは「わたしもあなたがたのように」彼らがパウロを愛したように、

パウロも彼らを愛した。なのに今、彼らはそのころの愛や救われた喜びを失い迷っていました。

ガラテヤに次々やって来た人々が、彼らに教えたのです。

イエス・キリストの福音ではなく、律法を厳格に守り正しい者になろう、と。

ガラテヤの教会からも、次々に来る伝道者の言葉に熱中し教会から離れる者たちがいました。

パウロは、3章10節「律法の書…を…守らない者は皆、呪われている」という旧約聖書を引用し、11節「律法によってはだれも神の御前で義とされない」と言いました。律法が悪いからではなく、律法は、正しさの基準を、教えるもの。救う福音では無いのです。

 パウロは「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言いました。

黙示録2章4-5節の「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。…悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と同じ気持ちで、パウロは信徒たちに素直な信仰を取り戻して欲しい、と

願っています。ガラテヤの信徒たちはなぜ、迷うのか。

パウロは言います。 あなたたちの内にキリストが形づくられていないから。

覚悟ができていないから。あなたたちはイエス・キリストを自分のものとしていない。

信仰において、神と人格的に向き合っていない。だから。

では、神と人格的(神格的!)に向き合うとは。覚悟とは?

ヨシュア記23章24章には、ヨシュアの死を前にした告別の言葉と死が書かれています。

民を神の御心に従って エジプトから導き出した指導者モーセ。

モーセの後を継ぎ、民と共にカナンに入植するため戦って来たヨシュア。

彼と共に、民はカナンに住んでいたアモリ人たちと戦い、イスラエルは部族ごとの領土も定められました。

長い旅と戦いの日々を共に経験した民に、ヨシュアは改めて問いました。

「わたしとわたしの家は主に仕えます」。彼は宣誓し、民にも誓うことを求めました。

① あなたたちは主を畏れ、主に仕えるのか、川の向こうであなたたちの先祖が仕えて

いた神々かアモリ人の神々か、仕えたいと思うもの(神)を、今日、自分で選びなさい。

すると、民は「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と応えました。

② ・主は聖なる神、熱情の神、あなたたちの背きと罪をお赦しにならない方。

 ・あなたたちが主を信じ主から幸せを頂いた後で主を捨てるなら、

主はあなたたちを滅ぼしつくされる。

それでも民が主を礼拝します、と答え、ヨシュアは言いました。

「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身」

そして彼らは答えたのです「そのとおり、わたしたちが証人です」。

創世記22章16-17節「御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。…あなたを豊かに祝福』する。

新約のヘブライ人への手紙6章13節は、ここを「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い…ました。」と教えました。

 主なる神に倣い、あなたたちも誓え。ヨシュアは民に求め、彼らは誓いました。

しかし、ヨシュアが「あなたたちは主に仕えることができないであろう」と言った通り、

民は 人は 幾度も 主なる神を捨て、背きました。

人はもう、滅ぼし尽くされて当然の存在。  それなのに、

私たちのために、イエス・キリストにおいて、ご自身の命を捨てて下さる方。

それが、私たちの神なのです。

 コヘレトの言葉7章29節

「神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」

難しく考え過ぎて、迷ってしまうのは、とても もったいない。

神と人の関係は、実はまっすぐで 素直なのです。

ヨハネの手紙一3章16節

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。

そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」

キリストが私たちの内に形づくられるまで、

御自分をかけて誓い、御自分を捨てて救って下さった神を、

私たちは私たち自身をかけて信じるのです。迷わず、まっすぐに。

「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」

「そのとおり、わたしたちが証人です」

お祈りいたします。