· 

「救い主となられた」

 

20240324「救い主となられた」

イザヤ書63章3-9節、ヨハネによる福音書12章27-36節        中村文子

 ヨハネによる福音書は、ほとんどがイエスの説教で構成されています。その中でも、12章の後半から16章までは最後の晩餐で語られたイエスの告別説教、呼ばれています。続く17章はイエスの祈りで、この祈りによって、語られた説教はまとめられ、主なる神に捧げられるかたちになっています。説教の冒頭の12章-13章にはイエスが弟子たちの足を洗った記事、イエスが弟子たちの裏切りを予告した記事も含まれます。

18章-19章でゲッセマネの園でのイエスの逮捕、大祭司とピラトによる裁判、そして十字架の記事が続きます。イエスの生涯で最も大切と思われる十字架よりも、ヨハネはイエスの教えに多くのページを使っています。

 今日の箇所はイエスの語り始め。十字架に向かう道に立ったことを自覚したイエスは自分の

気持ちを表現したのが、「心騒ぐ」という言葉でした。他の福音書は、心騒ぐイエスがその想いをゲッセマネの祈りとして父なる神に向ける姿が描かれています。

エルサレム入城からイエスについてきていた群衆の前で語り始めたイエスの決意に、主なる神は天からの声によって応じられました。

この時の天からの声について福音書=イエスの記録に書いたのは、ヨハネだけです。

イエスと共に居た人々は、声を聞いて「天使が話しかけた」と言ってざわめきました。イエスはこの語り掛けは自分のためではなく、「話しかけた」声を聞き取った人々のため、と言いました。

主なる神とイエスと聖霊で伝えるなら、言葉を使う必要はありません。イエスがこれから話すことが神の御心であることを知らせるため、イエスの言葉が人々の心に残るように、

神は群衆に理解できる言葉や話し方を選びました。

 「人の子は上げられなければならない」上げる は、聖書で2つの意味で使われます。

イエスが復活した後、人々の前から父なる神のもとへと行かれる時、「天に上げられ」ました。

旧約で預言者エリヤは生きたまま、人々が見ている前で「天に上げられ」いなくなりました。

また、ヨハネによる福音書3章14節には

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と書いてあります。

この場合は天の神の国に行くことではなく、モーセが青銅の蛇の人形を竿に「上げた」ように、

「上げられる」  十字架に磔刑になることを言います。

人の子 とは聖書では救い主メシアを表す言葉で、イエスはご自分のこととして言われました。

ヨハネが書いたように「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」   イエスはご自分が「上げられる」ことによって、「この世の支配者=悪魔・サタン」が裁かれ、追放される、と言われました。

 ではなぜ、救い主イエスは「上げられ」なくてはならないのでしょう。

イザヤ書63章1-6節は真の神の民を虐げる、罪深い者たちを滅ぼすために一人で奮闘する

神の姿。主なる神に逆らう諸国の民に、裁きと滅びの日がやって来たことを告げ、神の怒りの力が彼らの血を大地に流す様子。主に背く者に報復する、義なる神。諸国の民は誰一人、わたしに伴わなかった。そう言って酒船の中の葡萄のように彼らを踏み砕く方の衣は血に染まっています。

 7-9節 主の裁きの厳しさを示された預言者は、主がどんなに主の民イスラエルを愛し慈しみ、栄誉と豊かな恵みを与えて下さったかを思い返します。

すると、主なる神も預言者に語るのです。確かに彼らはわたしの民、わたしの子である、と。

この章の始めに書かれた残酷なまでに厳しい、罪の裁き。それが、

主は彼らの救い主となられた。 という言葉を境に神と人の位置が反転します。

主は 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、彼らを救い

愛と憐れみをもって彼らを贖い、彼らを負い、彼らを担ってくださった。

主が救い主となられたので、人間が受けるはずの神の怒りは人ではなく救い主に向くのです。

主が救い主となられたので、踏み砕かれ主の憤りを受け、大地に血を流したのは救い主なのです。

主なる神の義と怒りと憤りと、主なる神の愛と慈しみと憐れみが、十字架上で激突するのです。

 イザヤ書63章10-19節にあるのは、「わたしたちの贖い主」である神に、救い主として

早く来て下さい、と願う、捕囚の民の、約束の地からも主なる神からも離れた苦しみです。

かれらの祈りは聞かれ、主イエス・キリストは世に来られました。

イエスが向かって行く十字架は、罪から私たちを解放し、「この世の支配者」=悪魔を追放するためのものです。イエスは12-16章のメッセージによって、人のイエスを選び取る戦いの

ための、武器を与えて下さいました。

14章1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

主イエスは父なる神と共に、ゲッセマネから逮捕、裁判、そして十字架に至るサタンと戦いを続けました。主なる神は、聖霊なる神によってすべての苦難を共に経験して下さったのです。

十字架によって罪と死を滅ぼした神は、同時に私たちをどうしても罪を犯してしまう弱さと

敗北から、罪との親和性から救い出して下さいました。

14章13節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。

こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」 主に祈って生きれば、主が助けて下さる。

それを 心から信じることができた時、私たちの心に平安が与えられます。

そして、そこに主なる神の栄光が現れ、人々に伝わるのです。

主はわたしたちの救い主となられた。

主イエスはこの戦いがすでに完了した、と教えて下さいました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ヨハネによる福音書16章33節

お祈りいたします。

ここから17章までイエスのメッセージ。