20240407「信じて進むために」
出エジプト記15章1-18節、ヨハネによる福音書20章19-31節 中村文子
弟子たちはイエスと最後に晩餐をした部屋にいました。ここは福音書を書いたマルコの実家の2階です。イエスがゲッセマネで大祭司の手下に捕まってからずっと、十字架刑の様子を見に行くこともなく、隠れていました。出歩いたら、危険だ。
ここにマグダラのマリアたちが来て、イエスが復活した、と伝えました。
イエスの遺体は墓には無い!天使が現れた!それでもこの部屋を出て墓を見に行ったのは、
ヨハネとペトロだけ。用事があり外出しても、すぐ戻って戸に鍵をかけてしまう弟子たち。
イエスは彼らに「シャローム(あなたたちに平安があるように)」と挨拶しました。
この言葉は日本の「おはよう」「こんにちは」のような挨拶です。ビクビクしていた弟子たちに、「平安に!落ち着きなさい」と声をかけたのです。イエスがこの部屋に現れたのは、マルコやルカの福音書によるとエマオに行く道から帰って来た弟子たちが、途中、イエスに出会った、と
知らせにエルサレムに戻った後でした。マリアたちに知らされても 信じない。エマオから帰った者たちがイエスにパンを裂いてもらった、と言っても信じない。
そんな彼らの真ん中に、イエスは現れました。戸締りも鍵も関係なく現れたイエス。
うろたえる弟子たちに、自分は確かに実体を持っている、と見せるためにイエスがこの部屋で
焼き魚を食べた、と、ルカ福音書に書かれています。
イエスが復活し最初にこの部屋に現れた時、トマスはたまたま外出中。帰った時、もうイエスはいません。今度はトマスと部屋にいた弟子たちが信じる・信じない論争をしました。
トマスは「疑り深い」と言われます。でも、彼は復活のイエスに会い「わたしの主、わたしの神よ」と信じて告白したのです。イエスを見ても「亡霊だ!」と信じなかった人に言われたくないですね。
イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。イエスのことも、神の御姿も、私たちは自分の目で見たことはありません。
それでも、私たちは信じる力を頂いて、こうして礼拝しています。私たちと私たちの生き方に「幸いである」と言って下さるイエスのこの言葉を、かみしめたいと思います。
出エジプト記15章。新共同訳聖書はここに「海の歌」という表題をつけます。
15章1-18節はエジプトを脱出したイスラエル人たちの、神を称える賛美の歌です。
モーセの姉の女預言者ミリアムは (20節小太鼓と書きますが) タンバリンで民の賛美を導きました。私たちも、それぞれ自分の好きな讃美 自分の助けになる讃美があるように、イスラエル人はこの海の歌で励まされ、旅を続けました。この歌で、彼らは繰り返し思い出したのです。自分たちを追ってきたエジプトの戦士が、目の前で海に沈んだこと、イスラエル人に海を渡らせた神が、エジプトの戦士たちを滅ぼしたことを。
諸国はイスラエル人とその神を、エジプト軍を海で滅ぼした神、と知るようになりました。
やがて、出エジプトの民を攻撃した民は、主なる神への恐れで沈黙するようになりました。
旅の平安が守られるようになったのです。
出エジプトの旅の困難は、彼らを攻撃する民のせいだけではありませんでした。
モーセやミリアムたちが海の歌で民を励まし、いかに主なる神が力強く、民を護り導いたかを
繰り返し伝えても、 15章22節、またしても民は「飲む水が無い」と不平を言う。
民の信仰の弱さこそが、この旅の一番の困難でした。民自身、主なる神の御業を彼らの目で見、経験したのです。彼らは主が与えたマナによって生きているのです。彼らが荒野を旅した事自体、すでに主なる神の奇蹟なのです。毎日、私たちが目を覚まし呼吸し生活し生きていること自体が、主なる神の奇蹟なのです。
民も、復活のイエスを見ても信じない弟子たちも、トマスが告白した信仰に到達していません。
こんな弱々しい弟子たちに、イエスは「あなたがたに平和があるように。父が
わたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。
そして、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われた。
息を吹きかける。これについて、神が人を創造された時の事を思い出して頂きたい。
創世記2章7節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
聖霊=神の霊を人に与えて、新しい命を人に吹き込み、神の霊によって「生きる者と」なる。
イエスは弟子たちの今の ビクビクと閉じこもり、イエスを見ても信じられない「弱い」彼らに、聖霊によって新しい命が与えられる、と預言されたのです。
聖霊の力を受けた彼らに、罪を赦す・赦さない を決める力が与えられる。 それならば、
イエスが歩けなかった者、目の見えなかった者を癒し、自分の罪に泣く女性に言われたように、「あなたの罪は赦された」と、言う力も与えられるのではありませんか?
イエスは地上に居られた間も、父なる神、聖霊なる神と常に共にあり、主なる神の御心を知り、
御心のままに生きておられました。イエスが復活し、弟子たちに「聖霊を受けよ」と言われたのは、イエスのように私たちも、聖霊によって神の御心を知る力を与えられる、ということです。
ヨハネは、聖書が書き記された理由を、明確に書いています。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
これからも、私たちに 主なる神の奇跡が現れる毎日が始まります。
新しい命を受け、聖霊の力を頂いて、神の御心のままに主イエスと共に、命の道を進みましょう。
お祈りいたします。
ここから17章までイエスのメッセージ。
コメントをお書きください