20240421「再建する方」
イザヤ書62章1-7節、ヨハネによる福音書21章1₋19節 中村文子
イエスが確かに復活した、ということを弟子たちは知りました。彼らは2度復活したイエスに会い、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」「信じる者になりなさい」と彼らに語られました。もう隠れている必要はない。
彼らは部屋から出ました。そして。「わたしは漁に行く」と言ったペトロは、生活費の心配をしていたのでしょう。もともと彼は漁師。稼ぐ方法は知っています。
「一緒に行こう」と言った弟子たちと共に支度して、久しぶりにガリラヤ湖(ティベリアス湖)に舟を出しました。でも、何もとれない。夜が明け あたりが薄明るくなったころ、岸から声をかける人がいました。「何か食べる物があるか」彼らは答えました。「ありません」
すると「舟の右側に網を打ちなさい」 彼らはその声に素直に従いました。すると
魚があまり多く網を引き上げることができない。大きな魚でいっぱいの網は、破れていない。
ペトロも漁師ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、前にも同じようなことがあったと思い出しました。あの人は「主だ」 とヨハネが言うと、ペトロは上着を着て飛び込みました。
岸には炭火がおこしてあり、魚が焼けていて、パンもありました。
彼らは主だ、と知っていました。 「さあ、朝の食事をしなさい」彼らは空腹でした。
無言で食べ始めた彼らは、パンと魚を与えて下さるイエスを見て思い出しました。そういえば、初めて会った時も主イエスは言われた「あなたがたを人間をとる漁師にする」と。
五千人以上の群衆と食事をした時も、パンと魚を分けて下さった。みんな満腹した。
そういえば、復活した主イエスも、先ほどのように「何か食べる物があるか」と聞かれたっけ。
焼き魚を召し上がる主を見て、確かに生きておられる、とわかったのだった。
以前、ペトロたちをイエスが弟子にされた時、漁師を辞めることを 彼らは恐れませんでした。
空腹な群衆の前でも、彼らはイエスと共に居て不安はなく、むしろ喜んでいました。
主は私たちの生活の不安を知っていて下さる。必要を与えて下さる。
あの時、自分たちは誰も疑わなかった。今も、主イエスは確かに、自分たちと共に居て下さる。
彼らが満腹になるのと同時に、不安も恐れも満たされ、消えていきました。
黙々と食べていた弟子たちと逆に、イザヤ書62章の決意は、エルサレムと神の民が確かに救われ、清められるために、「わたしは決して」黙らない、というものです。
それは自分だけ一人だけのためではなく、シオンのため エルサレムのため。
エルサレムは「神の都」という意味。1節の「彼女」とはエルサレム 別名シオンのことです。
イザヤは神に背いた民を主が裁かれバビロン捕囚となることも、さらにその民を主が赦し、
回復して下さることも、主に示され書き残しました。エルサレムは完全に破壊され、廃墟となりました。神の都は荒れ果て「捨てられた女」と呼ばれ「荒廃」の象徴となっていたのです。
エルサレムの再建は民の悲願でした。ここには真の神の神殿がありました。
もし、国に戻れても、神殿が破壊されたままでは回復したことにはならない。
神の都が、神殿が再建され、そこに神の民が集い、真の神を礼拝する群が回復するなら。
神の都が 主の神殿が礼拝する者たちの賛美と感謝で満たされるなら、主が確かにご自分の民を救い、彼らは聖くされたと諸国の民も、知ることになる。
主の前に神の民と神の都の正しさが、燃える松明のように 輝くばかりに明らかになる。
「主があなたを望まれる」から。主なる神が神の民を「欲しい」と思うから。
神はエルサレムの夫となるために、彼女を妻にするために。妻として 夫として。結婚する相手として、主はエルサレムとその民を選び、「望まれる」「欲しい」。だから、主は神の民を救い、
清められる。結婚する、とは。夫となり妻となるとはどういうことでしょう?
新約聖書エフェソの信徒への手紙5章が、キリストと教会を夫婦として
「自分の体のように…愛し…キリストが教会になさったように…養い いたわる 」と書いているように、夫婦は互いの命の責任を持ち、相手を理解しようと努力し、大切にします。
もし、相手の痛み悲しみに無関心なら、その関係は成り立ちません。
私たちを命がけで愛して下さる方と、主イエスを愛する私たちが 愛し合い、信頼し合って
共に神の家を護る。夫は妻と共に家族を生かすために目を見開きます。
ペトロはイエスが十字架に架かる前、3度もイエスを「知らない」と言ってしまいました。
そのペトロにイエスは3度、「わたしを愛するか」と聞きました。ペトロは悲しくなり
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えました。 主を愛する者であることが大切なのです。
主イエスはペトロに言われました。
「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」
ペトロはイエスに信頼され、愛されていることを確認し、主への愛を取り戻し、
たとえペトロ自身「両手を伸ばし」十字架に架かるとしても、「わたしに従いなさい」という招きに従う力を与えられました。
「花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」。
主はご自分の民を妻として愛し、イエス・キリストを遣わし、十字架によって命がけの愛を示されました。 そして、主がエルサレムに見張りを置かれる。神の民の居るところに、主は主を愛し主のために生きる者を置かれます。私たちの救われた喜び、永遠に続く感謝と賛美が、松明のように光り続けるために、火を燃やし続けるために、主の愛に応え、声を出し続けましょう。
傷ついたペトロのように、信仰に弱さを感じ悲しむ時も、そこに主の愛の光が届くように。
そして主が、私たちのそばにいるすべての人に御声を聞かせて下さるように。
お祈りいたします。
ここから17章までイエスのメッセージ。
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