20240428「自由を得るため」
詩編106篇39-47節、ガラテヤの信徒への手紙5章13-26節 中村文子
神様が私たちを呼び、ご自分のところへ来るよう招いて下さったのは、自由を得させるため。
イエスが「真理はあなた方を自由にする」と語るのを聞いたユダヤ人たちは「わたしたちは奴隷ではなく自由です」と反論しました。ガラテヤの信徒たちに手紙を書いたパウロは、自由には使い方がある。肉に罪を犯させるための自由にしないよう注意しなさい、と言いました。ここで「肉」と表現されているのは、この世での私たちの命 そして私たちが持つ肉体的な感覚のこと。
また、ここで言う「霊」とは、神が遣わして下さる神の霊=聖霊の導きで、私たちが持つ感覚、
感情のことです。
パウロが書いた、「肉」が私たちの中に起こす欲求と、「霊」によって起きることとを比べて、
何が どこが違うのか、考えてみましょう。
「肉」の働きは5章19-21節。19節は性的な欲求と、それを満たすために人を 他人や自分を道具にし踏みにじることです。また、偶像礼拝や魔術。「ここで祈れば、試験に合格します」、「この絵を見ながら呪文を唱えれば、あなたの願いは叶います」と、本来、神から与えられていない力を、人間が自分の領域を超え得たがる、使いたがること。真の神の御心を無視した願いや欲求が叶うことはありません。木や石や金属で神々:人間以上の 主なる神 以外の何かを造っても、それに願いを叶える力も人や世の中を動かす力もありません。
敵意、怒り、妬み…そこには自分の側の視点しかありません。自分の価値観で、自分以外を攻撃し害する感情です。さらに泥酔や酒宴は、自分の思い通りにならない気持ち 心の動きを、無理やりに お酒や薬によって鈍らせ、黙らせています。
「肉」の働きは、この世だけに焦点を合わせた生き方から出てくるもの。
人が人間を「醜い」と感じる時、見えているのは「肉」の働き。とても苦しく、残酷な嫌な感情です。
自然に出てくる感情なのに、苦しいのは何故か。それは、神から与えられた魂が、苦しんでいるのです。 人間には寿命がある。命にも体にも限界があります。でも、人間には魂があります。
魂は人の体の中に形を持たない、臓器でも骨格でもない、人間の中で最も神に似ているところ。それが魂です。寿命にも体力的限界も超えて、永遠に存在する、人間の大切な「部分」であり心と共に無くなることはありません。
私たちが人生から永遠を切り捨てた「肉」の生き方のみで 考え、生きる。その時、私たちの魂は苦しんでいます。この苦しみを理解するのが、永遠なる方。全知全能のただ一人の神なのです。
きょうの詩編の箇所に、神の民が人間として苦しんだこと、苦しみの果てに見つけ、神に願った欲求が、書かれています。旧約聖書が書き記した、世の始めからの人間。
彼らはガラテヤ書で言う「肉」の活動によって、苦しみから逃れようとしました。旧約聖書は、
人が真の神を捨て偶像を礼拝することを淫行:人間の神から偶像への浮気 と表現します。
真に力のある方、彼らの神に背き続ける民に、神はあえて 神以外に 偶像を神とする国によって支配される苦しみを経験させました。目に見えない神よりも、目に見える神々の像を選ぶ民。
偶像や、人間の力による政治力、軍事力では、自分たちを導き続けた神を超えることはない、と、
彼らが知った時、それでも神に反抗し続ける民を神は憐れみ、「彼らに対する契約を思い起こし
豊かな慈しみに従って思いなおし」、彼らをとりこにしたすべての者が彼らを憐れむように計らわれました。彼らは神に求めたのです。「わたしたちを救い 諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。」
私たちが自分の目で何を見ても、恐れ慌てて 偶像や人の力に頼るのではなく、永遠なる神に期待し、「あなたに委ねます」と信じる。その時、私たちは神と人を愛する力、身の回りで起こることを喜ぶ力、平和を造り出し、平和に生きる力を与えられます。それは詩編106篇のように、民が苦しみの果てに神に求め与えられた性質と言えます。
「霊」の働きは自分も人も大切にし、互いの居場所も心のありようも、広く自由にするものです。「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
主なる神は、私たち人を、神の国を受け継ぐ者として期待しておられます。
もともと神から与えられている魂が、本当に自由に生きられるように。限界の中で苦しみ続けるのではなく、永遠の神の国に繋がる命を頂いて永遠なる神と共に生きる者となるよう、
招かれているのです。
イエス・キリストの十字架は、罪と汚れから私たちを洗い清めると、私たちは聞いて来ました。
私たちが「肉」の力に頼り、目に見えるものを 人もこの世のすべてをも傷つけ、踏みにじりながら生きるのではなく、互いを「寛容」に受け入れ、「親切」に相手のために心を配り、
「善意」をもって「誠実」に、そして余裕を持って「柔和」に。貪欲さではなく「節制」の心を持って、
生きられるように。
もしまだ 「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。
自分の欲求のために相手を害する私たちの生き方は、イエス・キリストの十字架の死と共に滅ぼされました。
神がこの地上に一人一人を置いて下さったのは、お互い狙いあい、探り合い、互いの場所を奪い合うためではありません。「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられたのです。
私たちの魂が、本当に自由に霊に導かれて歩むことができますように。
私たちが神の前に喜び集い、神の御業を感謝しほめたたえる者でありますように。
お祈りいたします。
ここから17章までイエスのメッセージ。
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