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「注がれる命」

 

20240519「注がれる命」ペンテコステ聖霊降臨祭

エゼキエル書37章1-14節、使徒言行録2章1-12節           中村文子

 「いったい、これはどういうことなのか」 エルサレム中から集まって来た人たちは、1件の家をのぞき込んで驚いています。この家全体に激しい風の音が響き、この家に集まっていた120人がそれぞれ 語りだしたのです。

ユダヤ人は議論が好き と言われます。偶像礼拝に通じる、と絵や像を造ることをせず、事件や感情を言葉で 細かく表現する民族。彼らが口々に言ったことの記録が、使徒言行録2章です。

 この家にいたのはガリラヤから来た人たち。聖霊によって彼らは当時の世界中=地中海沿岸の地域の言葉で話しました。この日は五旬節の祭の最中。世界中からエルサレムに帰って来たユダヤ人たちは、自分たちの言葉を話すこの家の人たちに びっくりしました。

この家の人々は、過越しの祭の時に十字架に架かった イエスの関係者でした。

イエスの弟子たち、イエスの母マリア、ガリラヤからイエスに従って来た女性たち男性たち。

イエスが弟子たちと最後の晩餐をしたのがこの部屋。イエスが十字架に架けられた時、弟子たちが隠れたのもここです。彼らは「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」

彼らに話させたのは聖霊 神の霊です。大きな音とともに、炎のようなかたちで彼らに留まった聖なる神の霊が、彼らに、彼らが普段使っていない外国の言葉で話させたのです。

大きな音やたくさんの人の声に驚いてこの家に集まって来た人たち。

この人たちは決してお話が聞きたくて 集まったわけではありません。

イエスにも 弟子たちにも関心の無い人たち。でもこの人たちは弟子たちが話すことを、すぐ

理解しました。聖霊なる神が、弟子たちの口から彼らの言葉で、「神の偉大な業を」語ったのです。

 預言者エゼキエルは、聞く気が無い どころか、生きてさえいない人々の「甚だしく枯れ」た骨に向って「預言せよ」と言われました。預言は 神の言葉を人が預かって語ること。

幻の内に主の霊=聖霊に案内されるままに歩き回ったエゼキエルが見たのは、人の骨が谷を埋めるほど沢山ある場所。

そこで主なる神は預言者に問いかけました。「これらの骨は生き返ることができるか」

もし同じ質問を聞かれたら、私は「無理 無理、生きるわけない でしょ!」と言うでしょう。

エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と、答えました。

命を与える方は神様だけ、と知っていたからです。

主はエゼキエルに命じました。 「骨に向って預言せよ」

5節~8節 預言を受け 骨は組み上り、「満ちて」いた骨は死んだ人の群になりました。

さらにエゼキエルが主の命令に従い「霊に預言」すると、死体は生き返りました。

(この箇所を歌う黒人霊歌調のDryBonesというコーラスソングが昭和の初めにアメリカでレコーディングされ、日本ではデュークエイセスが歌いました。アメリカでは童謡のように歌われているらしいです)

神様は生き返った者たちに「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と6節と13節で言われました。生きる、とは、命を与える神が主なる方=すべてをその御手の内に治めておられる方 と知ることなのです。

13節 主なる神は「わたしが墓を開く」と言われたことは実現し、イエスは復活して墓から出、

人が死によって滅ぶことから 救って下さいました。

「お前たちを墓から引き上げる」復活したイエスは多くの人が見ている前で天の神のもとに昇り、

私たちを永遠の神の国に繋いで下さったのです。

14節「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」

これが、ペンテコステ五旬節の日、聖霊降臨によって実現したのです。

主が「わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる」と言われたことを、ユダヤ人たちは自分たちが約束の地に帰れるという約束だ、と考えました。でもその約束は、ユダヤ人だけのものではなかったのです。信じて、聖霊を与えられた人 神の霊を与えられた私たちを、神はご自分の家に招き入れ、「あなたたちの場所だ」と言って下さるのです。

 イエスが神様のもとに帰られる時 言われました。

マタイによる福音書28:19「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」

マルコによる福音書16:15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

聖霊が降られた時、祈っていた弟子たち120人に授けられた言葉は、ユダヤ人の言葉ではなく、

外国語:ユダヤ人たちが散らばされて住む国の言葉でした。

エルサレムの家で人々に語った人々は、ガリラヤの人たち。神様はご自分の福音について、

語る人が誰であるか、語る言葉がどの言葉であるかを選ばないのです。

エゼキエルが預言せよと命じられたのは、どう見ても命があるわけがない「枯れた骨」でした。

この人たちが聖書のお話を聞いてくれるわけがない。イエス様のお話をして届くわけがない。 イエスの「すべての民を」という命令は 困難なことに聞えます。

主なる神は、すべての人がすべての人に、すべての言葉で福音を語ることを望まれるのです。

テモテへの手紙二4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

 ずっと「信仰はお前の問題で、私は関係ない」と言っていた母は80歳で受洗を決意しました。驚く私に牧師は言いました。「彼らに神様は何もしない と思うのか」

弟子たちに語る言葉を与えたのは、聖霊なる神です。

弟子たちの言葉を聞く者を呼び集めたのは、聖霊なる神です。

「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる」 主の言葉を聞き期待しましょう。

お祈りいたします。

ここから17章までイエスのメッセージ。