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「聞く幸い」

 

20240602「聞く幸い」

申命記6章16-25節、ローマの信徒への手紙10章5-17節        中村文子

 申命記6章「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ…常に幸いに生きるようにしてくださった。我々が命じられたとおり、…この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける」。掟を行え、という命令の前提は「マサにいたときのように、主を試してはならない」これは出エジプト記17章、荒野を旅した民が、飲み水が無いからと「主は我々を渇きで殺すためにエジプトから導き上ったのか」と、不平を言った時のことを言っています。

それまでに、民は海の中にできた渇いた道によってエジプト軍から逃れる経験をしました。

また、民はモーセを通して 神から十戒を与えられました。   さらに民はこの頃既に毎朝、不思議なマナを集め生活していました。

マナとは、「食べる物が無い」と文句を言った民に、神が与えたパンです。

 こんなにも奇跡を経験したのに、民は「水が無い」と文句を言いました。

主はモーセに岩を杖で叩いて水を出すよう命じ、民は飲むことができました。                                                                                                 

民は自分たちを導く神に従う方法として、後に律法と呼ばれる神から与えられた決まりや戒め=掟 を守って生きることを決意しました。

申命記6章20-25節は、イスラエルの民が子々孫々に律法を教え伝えるために用いられた

親と子の問答です。「…掟と法は何のためですか?」「我々はエジプトでファラオの奴隷であった…我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」 「掟を忠実に守れ。そうすれば、あなたたちは生きる」

イスラエルの民は自分たちも子孫も掟を学び、掟を守って生きるよう言い伝えました。

 民は主なる神から与えられた掟を身近に置きました。しかし、申命記30章14節が

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」、「主の目にかなう正しいことを行いなさい。」「この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」と語り伝えてきた掟を、彼らは守り切れませんでした。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは申命記30章14節の引用から「それを行うことができる」という言葉を 切捨て「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」と書きました。

パウロはこの言葉を、自分たちが宣べ伝えている信仰の言葉だと教え、

さらに救いの教えを書きました。 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」 

これは、信仰告白が大切であることを教えるため、また新しく洗礼を受ける人を導く時に、

現代の教会でも、最も用いられている言葉です。

・・・・御言葉が「あなたの口、あなたの心にある」と言い「イエスを(口で)公に言い表し、心で信じるなら」救われる。

日本語の「御言葉」。教会ではこれを「聖書の言葉」と、「神の言葉」両方の意味で使います。

そして、ヨハネによる福音書1章は、(神の)言(ことば)こそが、世の光として神がこの世に遣わした救い主 イエス・キリストのことだ、と、語っています。

パウロはローマの信徒への手紙10章に引用した申命記の言葉を、ヨハネが福音書1章と同じ信仰に立って、教えています。

「御言葉はあなたの近くにある」 

御言葉なる神の言がイエス・キリスト なのですから、イエスを信じ受け入れた者には、

神の子救い主なるイエス・キリストが「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

 ローマの信徒への手紙10章14節-15節は、牧師や宣教師などの伝道者が遣わされる時、

祝福の言葉として用いられる箇所です。これは13節に対する応答として書かれています。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」

それならば、どうしたら「主を呼び求める」ようになるのでしょう?それは、主を信じることです。

どうしたら「主を信じる」のでしょう?それは、福音を聞く 主イエスが知らせて下さった、

良い知らせを聞くことです。では、どうしたら「イエスが知らせて下さった良い知らせを聞く」ことができるのでしょう? それは、福音を宣べ伝える者がイエスの言葉を教え伝える人がいて、語り伝えれば聞けるのです。

では、どうしたら「イエスの言葉を教え伝える人が語り伝え」てくれるのでしょう?

それは福音を宣べ伝える者を遣わす 派遣する方がその人を遣わしてくれるなら、できるのです。

 主なる神は、ご計画の通りにイエス・キリストを私たちの住む世に 遣わして下さいました。

イエスは人々の中に出て行って、彼らの近くで神の国の福音を語り伝えました。

イエスが遣わされ、福音が宣べ伝えられ、人々は聞くことができました。

 でも、パウロが言うように 「すべての人が福音に従ったのではありません。」

イエスを神の言と呼んだヨハネによる福音書は、3章でこう言っています。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。…人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、…

光の方に来ない… しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

私たちも、申命記で掟を守る、と誓った民と同じ、人間です。

私たちには、掟を守る力も、正しく宣べ伝えられた福音を聞く力もありません。

だから、イエスは、世に来られたのです。「御言葉はあなたの近くに」来られたのです。

イエスは主なる神によって遣わされ、イエスの福音は宣べ伝えられました。

聞く力を祈り求めましょう。

良い知らせを聞き、イエスが命がけで伝えて下さった幸いを受け取る力を頂きましょう。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

自ら私たちに近づいて下さる神の言を聞き、命の力を受け取りましょう。

お祈りいたします。