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「礼拝する者」

 

20240616「礼拝する者」

ミカ書4章1-7節、ヨハネによる福音書4章6-26節            中村文子

 東日本大震災が起きた日、公共交通機関を使えず歩いて帰宅する人々が多く居ました。

私も、ぞろぞろ歩く人々の一人でした。 戦争や大災害の時、あの日の私のように多くの人が

道を埋め尽くし、川の流れのように歩いて行く姿を私たちは見ます。

 ミカ書4章でも多くの人が移動しています。でもミカ書の人々は、破壊や争いから逃れるの

ではなく、命と平和を求める人々です。大河のように 彼らは神殿の山を目指します。山々の頭としてどの峰よりも高くそびえるその場所を目指し、多くの国々から人々はこの群に加わります。

 主なる神が多くの民の争いを裁かれる日。強い国々を主が戒められる日。3節

裁きも戒めも「罰を加える(バチを充てる)」という意味合いはありません。神は争う者たちを公平に扱い、それぞれ本来のあるべき場所に戻す。神の基準で双方の不平を平和にし、不満を充たす。そうして神は人々から争いの種を取り除き、戦う理由を打ち消されます。もう剣は要りません。槍も要りません。彼らがこれから必要な「刃物」は、互いを傷つける武器ではなく、神から与えられた大地を耕す農機具です。彼らは武器を打ち直し鋤や鎌に。主の神殿の山に集い平和に、主の土地を耕し生きる。      まるで、最初の人アダムがエデンの園で生活した時のように。

 預言者ミカが見た主の幻は、人間の普通の暮らしからは遠く見える。それには理由があります。

主の山を目指す群に加わるために、私たちには乗り越えるべき壁が、それぞれにあります。

ヨハネによる福音書4章でイエスが出会うサマリア人の女性も、生きにくい現実の中に居ました。彼女が井戸に来たのは、1日の内で最も暑い正午ごろ。生活に使う水を汲む労働には、向かない時間帯です。水汲みに来れば、町の人たちに会ってしまう。水汲み嫌。そんな彼女の心を、

イエスは16節~18節で指摘しました。「『(私には)夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 イエスが彼女の生活を鋭く指摘したのは、彼女が「水をください」と言った時でした。

彼女の生活が彼女の今の行きづらさの元だと指摘する前に、

イエスは彼女の心の壁を一つ一つ、乗り越えました。

最初の壁は「ユダヤ人のあなたがサマリア女の私になぜ」頼む?

ユダヤ人とサマリア人の中の悪さは、イスラエル王国の分裂以来のもの。外国との戦いで南ユダもサマリアを首都とする北イスラエルも滅亡。民族の独自性=純血を守ったユダヤ人は、混乱の中で混血化の進んだサマリア人を差別し 見下していたのです。

「もし…『水を飲ませてください』と言ったのがだれ…か 知っていたならば、あなたの方から…頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

これを聞いて「…どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。」と、彼女は聞きました

ヤコブは神がイスラエルと名づけた、サマリア人とユダヤ人両方の先祖です。

イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。…わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言い、彼女は言ったのです。

「ここに汲みに来なくていいように、その水をください」

 イエスは、彼女が自分から「水をください」と言った時に、あなたの現実は知っている と、

彼女の夫問題を指摘した。すると彼女は「あなたは預言者だとお見受けします。…あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と言って、

もう一度、民族の壁、偏見の壁を立てて反抗しました。あなたたちは私たちを差別する。

 私たちが日本で、イエスの福音を伝えようとする時も似たような壁が現れます。

キリスト教は外国の宗教じゃないか。キリスト教が日本に入って、殺された人が沢山 居た。

日本にはキリスト教は合わないのではないか。

聖書に書かれた時代も今も、キリストの救いの福音が 人々に伝わって行く壁となるのは、

民族の壁、歴史の壁、生活リズムの壁、…などなど。どれも、とても乗り越えられない困難な壁に見えます。その時、イエスがサマリアの女に話したことが、私たちの宣教のヒントになります。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

人間同士のどんな差別も、どんな歴史も、経験も、神と人との関係を邪魔するものではない。

彼女は言いました「『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。

その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』」 すると、

「イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」

  ミカ4章は、争いを離れた者たちはそれぞれ自分の果樹を持つ。彼らを脅かす者は無いと語り

さらに神ご自身が王となられる国での、不思議なことを書いています。

「わたしは足の萎えた者を集め 追いやられた者を呼び寄せる。…わたしは足の萎えた者を

残りの民としていたわり 遠く連れ去られた者を強い国とする。」

幻は、弱い者たちが 癒される とも 強くされる とも言いません。痛めつけられ、弱り

足の萎えた者が集められ、神の国が強くなる。主が受け入れて下さるのです。

弱いまま、苦しんできた者をそのまま、主はいたわり 呼び集めなさるのです。

人種でも どんな立場か でもない。生まれでも 肌の色でも 五体満足かどうか でもない。

あなたが信じて、同じ信仰を持つ者たちと共に心と声とを合わせて、主なる神を礼拝すること。

それが、神を礼拝するということ。  霊と真理 つまり 魂と信仰の問題なのです。

心から「イエスは主です」と告白し賛美する者の群こそが、神の国を目指す者の群。

預言者ミカが見た、信仰者の大河のような流れに加わる者なのです。

お祈りいたします。

ここから17章までイエスのメッセージ。