20240714「わたしだ 恐れるな」
イザヤ書43章8-15節、ヨハネによる福音書6章16-21節 中村文子
聖書の福音書にはイエスと弟子たちがガリラヤ湖の嵐で苦労する逸話がいくつか出て来ます。
きょうの箇所で、弟子たちが舟を出す時、イエスは側に居ません。
6章はじめ、ガリラヤ湖(ティベリアス湖)近くの山でイエスは、沢山の人を少年が差し出してくれたパンと魚でみんなを満腹させた奇跡がありました。お話を聞た「男だけでも五千人」の人たち 女性や子どもも居ましたから、多分1万人を超えた人々との交流があったのです。イエス様も休憩が必要です。
お一人で山に入り、神様に祈るの時を過ごして居られたのでしょう。
18節「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」。
弟子たちの中には、ペトロ、アンデレ、ヤコブやヨハネら、もと漁師が揃っています。彼らは舟にも湖にも慣れています。舟は漕ぎ出したばかりでした。彼らも、それほど余裕は無かったようです。
きょう、礼拝招詞は本格的嵐の中のパウロの言葉です。「わたしは神を信じています。わたしたちは
必ずどこかの島に打ち上げられます。」とパウロは言いました。パウロが声をかけたのは船乗りたちでした。あの船乗りたちを励ましたパウロは、船乗りたちと同じ船に乗っています。
でも。弟子たちは舟に 外から 近づく方を見ました。そして、「彼らは恐れた」恐がる方が普通です。
だって、 「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られる」 え?まさか。
弟子たちに共感します。湖は「歩いて近づく」所ではありません。
暗い中、ひらひらと衣をなびかせ舟に近づく人影。十分、ホラーです。
彼らの叫び声、悲鳴も大きかったことでしょう。そんな彼らに
「イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 」 彼らにイエス様の声が聞こえたのです。
さて、きょうももう1か所、旧約聖書を読んで頂きました。神様がイスラエルの民に語る言葉です。
10節「わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる」。
イザヤ書43章は、裁判のような形式で書かれています。神様は裁判で、ご自分が真の神である、ということを証明するために証人を立てた、と言っておられるのです。
神様がご自分のために選んだ証人がどんな人たちか書かれたのが、8節です。
「引き出せ、目があっても、見えぬ民を 耳があっても、聞こえぬ民を。」
…なんという、役に立たなそうな人たちでしょうか!
43章1-7節で、神様はイスラエル人に、わたしはあなたたちと共にいる。災いの中でもあなたを守る。あなたを愛している。だから恐れるな、と、優しく語り掛けています。
それなのに、彼らは「目があっても、見えぬ民 耳があっても、聞こえぬ民」なのです。
見えるか 聞えるか ではなく、彼らが知りたい解りたいと思わない人々 だから問題なのです。
彼らが わからん人々だから、神様は何度も繰り返し、彼らに説明しなくてはなりません。
彼らの理解力が足りないから、神様は彼らに厳しい経験をさせたのです。
3節で神様は彼らに「わたしはエジプトをあなたの身代金とし・・・」と言い、また14節で
「わたしは、あなたたちのために バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて外し カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」と言いました。エジプトもバビロンのカルデヤ人も、イスラエル人から見れば とても強い人々です。神様は御自分の民と呼ばれた彼らイスラエル人に、
あなたたちをエジプト人やカルデヤ人から助け出す。わたしこそ救い主、と宣言されたのです。
神様はイスラエル人の歴史を聖書というかたちで書き残すようにされました。聖書の中で、
神の民は、「目があっても、見えぬ民 耳があっても、聞こえぬ民」と呼ばれるに相応しい行動を繰り返し繰り返しします。聖書を通して民も、聖書を読む私たちも書かれた通りだと知るようになったのです。
「わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちは
わたしを知り、信じ理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
わたしの後にも存在しないことを。」
人間は他人のことはよく見えるものです。私たちは聖書を読んで「イスラエル人って、なんて愚かな人たちだろう」と思う。でも、聖書はイスラエル人のためだけにかかれてはいません。
「目があっても、見えぬ民 耳があっても、聞こえぬ民」であることは、私たち自身も同じです。
イエス様がいないけれど、舟を出した弟子たちは 荒れ始めた湖で頑張りました。
彼らは舟を無事に進めることで精一杯でした。意地悪い読み方をすれば、この時 湖は嵐では
無かったかも知れません。イエス様が一緒ではない、という心細さから、彼らはパニックをおこしていたのかも知れない。そして、パニクると 私たちは焦り、
いつもなら見えるものも、見えなくなるのです。
彼らにイエス様は言われたのです「わたしだ。恐れることはない。」と。
彼らはイエス様を舟に迎え入れようとし始めました。 もう、怖くない。
イエス様は「言われた」 叫ばれた、とは書いていません。でもイエス様の声は、彼らの耳に届いたのです。風も波の音も超えて、彼らは聞き取ることができたのです。
よく知っている道を歩いていても、よく知っている人たちと会う時でも、私たちは緊張します。緊張すると、どんなに慣れた仕事でも不安になるものです。
書きなれた文字でも、ふと 間違えたかな?と思ってしまうことは あるものです。
イエス様がいない、と思いつつ舟を出した弟子たち。荒れ始めた湖で何かを怖がる弟子たち。
誰にでも、こういうことはあります。イエス様は私たちに聖霊を通して言って下さる
「わたしだ、恐れるな」と。 その声を聞き、イエス様を迎え入れようと努力する。
その力を与えられているのが、神の民。
神様を信じ、神様について知らされてきた私たちなのです。
神様は私たちの弱さ愚かさを問題にしません。イエス様は 湖を歩く方。
思いがけない 怖いくらいの方法で近づいてきて下さる方です。迎え入れましょう。
そして、イエス様と共に 目指す地にたどり着きましょう。
私たちの神様は、こう言われるのです。
「わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。
…わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え
あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と
主は言われる。」
お祈りいたします。
コメントをお書きください