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「記念し わきまえる」

 

20240721「記念し わきまえる」

詩編78章25-39節、コリントの信徒への手紙一11章23-34節     中村文子

 「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血とに対して罪を犯すことになるのです。」 聖餐式の度に、この言葉は式文として読まれます。

この手紙を書いたパウロは どういう人が聖餐式に「ふさわしい」と考えていたのでしょう。 

「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」と、29節にありましたが、「裁き」:その行動が正しいか正しくないか、きちんと神様にご判断いただく必要がある、と思われる人々、問題がある、とパウロも思う状況があったのです。

 イエス様が聖餐式の行い方を制定された時、イエス様と弟子たちは過越しの祭のために集まって食事をしていました。このころの聖餐式は、現代の私たちが小さなパンと杯で行っている儀式ではなく、教会のメンバーが集まって食事する形式だったのです。

 教会に集っていたのは、ユダヤ人だけでなく、ギリシア人、ローマ人、貴族も兵隊も、金持ちも使用人も、奴隷たちも、職業や立場も様々な人がいました。夕の食卓として整えられた聖餐式に最初から参加できる人、数時間後に仕事のきりをつけて来る人など、立場や仕事により生活時間がバラバラ。そこで、困ったことが起きたのです。11章20節~21節「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」  コリントの教会の人々は、自分が聖餐の食事会に出席する事には熱心でした。けれど、彼らには教会のメンバーへの配慮も遠慮も気遣いも心配りもないと、その食事の態度で判ります。

同じ神を信じ、同じキリストによって救われたのに、共にキリストの体を構成しているはずの仲間を待つことも、仲間の生活時間に配慮することも無かった。つまり、自分以外の人の生活に対する愛が無かったのです。それで、パウロは33節~34節に解決策を書いていたのです。「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。

裁かれるために集まる、というようなことにならないために」。

詩編78篇、神様が民のために食べる物を与えたのは、エジプトを脱出した民のためです。

荒野には食べる物が無い!神は我々を飢えで死なせるのか!と叫ぶ民のために、神は毎日、

マナと呼ばれる不思議なパンを与えました。

彼らが肉が食べたいと言えば、神は彼らの居る場所に大量のうずらを飛んで来させました。

聖書には神が 鳥を 砂のように降らせた、と書いてあります。さらに彼らが、喉が渇いて死にそうだと騒いだ時、神はモーセに岩を杖でち水を出すよう指図し、水は彼らの前で川となって、彼らは十分に飲むことができたのです。

 荒野を旅した彼らは、神に何度も、叫び、要求しました。その度に「神は彼らの欲望を満たしてくださった」  けれども彼らは、神が必ず彼らを守って下さる方だ、と信じませんでした。「彼らは神を求め、立ち帰って、神を捜し求め」ました。それは神が怒って、自分たちは滅ぼされるかもしれない、と気づいたからです。彼らは神をほめたたえ、賛美しました。それでも、

「彼らの心は神に対して確かに定まらず その契約に忠実ではなかった」のです。

出エジプトの民の記録は、彼らの不忠実さを顕わにしました。主なる神は彼らの欲望を何度も満たして下さいました。が、彼らの欲望は「飽きる」ということはありませんでした。

果てしない飽くなき欲望。「欲しい」「欲しい」。これは出エジプトの民だけではなく、

私たち全人類。すべての時代の人々が持っている性質です。

主なる神への信仰を持っていても持っていなくても、人間の欲深さはかわりません。

主なる神を知る私たちが 神をまだ知らない人々と比べ違う点は、自分たちがどれほど神様に対して不忠実か、不安定な存在か に、気づき、また気づかせて頂いている、ということです。そして、人は 「過ぎて再び帰らない風」と見なされるほど、不確実な存在だということです。

 コリントの信徒への手紙一11章23節にあるように、主イエスは「渡される夜」聖餐を制定されました。最後の晩餐の後イエス様は、弟子たちと共に祈るために行かれたゲッセマネの園で捕らえられました。詩編78篇38節にあるように「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め 憤りを尽くされることはなかった。」のです。私たち人類を滅ぼさないために、神は私たちの滅びを引受ける方を遣わし、十字架の死と滅びの苦しみの中へと

引き渡されたのです。主イエスは黙って この運命の道を進まれました。

その直前に、ご自分の運命を私たちに教え、記念し、忘れずにいるために、

聖餐式を制定し、新しい契約に 私たちを加えて下さったのです。

 私も出席していた ある聖餐式で、旅の途中、礼拝に出席した方の小さいお子さんが、聖餐のパンを見て「いいなあ。ちょうだい」と、言いました。するとその子の親は、

自分のパンをちぎり、子供に与えたのです!  びっくりしました。

「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」 

 聖餐のパンと杯が主イエスの救いの業の記念だ、という事の前で、私たちは新たに自覚するべきなのです。 自分自身こそ、主イエスを十字架の死に至らしめた、張本人なのだ、と。

もう一度、知るべきなのです。

立場や貧富の差や、民族や能力に関わらず、人はすべて神に愛され、神の子が身代わりとなって命を捨てるほどに愛されている存在なのだ と。

「「これは、あなたがたのためのわたしの体である。‥‥この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。…だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

お祈りいたします。