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「明らかに 光」

 

20240825 「明らかに 光」

出エジプト記13章17-22節、エフェソの信徒への手紙5章11-20節   中村文子 

出エジプト記から、イスラエルの民は長く厳しい旅をしました。エジプトを出て、カナンの地に入るまで40年間、彼らは旅をしました。しかし距離的には。エジプトとカナンはさほど離れていません。

彼らの先祖アブラハムはメソポタミアのバビロンからカナンへ旅をしました。その旅は

創世記12章4節~5節 たった2節。出発から到着まで、1年とかかっていません。

イエス・キリストがヘロデ王を避けてエジプトに避難したのは、出エジプトの旅を逆に辿る道であったはずです。幼子イエスを連れた旅は、長くて数週間ほどでしょう。

なぜ、出エジプトの旅は40年もかかったのか。

 きょうの13章17節 神様は彼らが葦の海に通じる荒野の道を通るように導かれました。

彼らが導かれた道は、近道ではありません。もしペリシテ街道を通れば、より早くカナンにるルートです。でもそこは異民族との戦いを避けられない、厳しい道でした。

彼らは、恐れてエジプトに帰ろうとするかもしれない。

民にはまだ、自分たちの神様が、必ず自分たちの命を守る方だ、という信仰がありません。

でも彼らは神様に従うことを選びました。主が遣わしたモーセに導かれ、荒野へと踏み出したのです。彼らは、荒野の旅でモーセを通して「飲む水が無い」「食べるものが無い」と訴えました。

食べ物や水に困るたびに、彼らは神様が自分たちを荒野で殺すつもりか?と、疑いました。

それでも、彼らは信じられない神様から逃げ出すのではなく、荒野の旅で見聞きした偶像の神に祈るのでもなく、自分たちといつも一緒に居る神様、いつも雲の柱・火の柱で自分たちを導く神様に、何度も何度も訴え、神様はその度に、彼らの願いを聞いて下さいました。

40年は旅する実際の距離の問題ではなく、彼らが信仰の訓練を受けるための時間、

民の心が主なる神様に近づくための時間でした。

 モーセはヨセフの骨を携えていました。ヨセフはイスラエル一族のエジプト移住のきっかけとなったイスラエルの息子の一人で、エジプトでは王に次ぐ最高権力者です。

創世記50章24節「神様は必ずあなたたちを…誓われた土地に導き上ってくださる…そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」と彼は遺言し誓わせました。

ヨセフは自分たちをエジプトに呼び寄せた神様を信じました。先祖アブラハム・イサク・ヤコブに誓って与えた土地に、神様が自分たちの子孫を帰らせて下さると、信じていました。

そして、ヨセフと会ったことも無い子孫のひとり、モーセは神様がイスラエルの民を約束の地に導いて下さる。神様は必ず誓いを果たされる、と信じていたのです。

イエスがマルコによる福音書11章24節で教えた「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」という言葉に繋がる信仰を、

ヨセフもモーセも、持っていたのです。

 エフェソの信徒への手紙5章は、主なる神様に喜ばれるため「明るみに出しなさい」と言います。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」は、当時 教会の洗礼式や入会式で用いられていた言葉です。

「眠りにつく」は、死を意味します。死は、本来は滅びの入り口と考えられていました。

「起きよ 立ち上がれ」とは、復活を意味しています。 光は、神様の性質の1つ。

イエス・キリストは復活し、死の眠りから起き上がり、新しい命を与えられた者たちを照らす方となられたのです。

 光の側、神様の側で生きるために、賢く歩みなさい。私たちは自分を愚かだ頭が悪い と言う。謙遜は悪い事ではありません。でも、「自分はバカだから」と言う時、自分の不注意、配慮の無さ、気配りの足りなさを軽く扱い、自分にも他人にも、愛の無いことの言い訳にしてしまうことが あるのではないでしょうか。

 今は悪い時代。パウロがこの手紙を書いた時も今も、神様の目の前で「良い」と言える時は来ていません。私たち一人一人が注意していても時代の流れから受ける影響を軽く見るのは危険です。

酒に酔いしれてはなりません。ここで酒と言っていますが、問題は酒だけではありません。「酔う」 浸ってじっくりと味わう。と同時に、それ 以外に対して感覚が鈍り、無抵抗になり、動きが止まります。すると自分の心が覆われ、心の中に光が届かなくなってしまう。

先ほどの「時をよく用いなさい」という警告に、全く対応できない状態になります。

私たちは心の中に線を引いてしまうことがあります。

これは、神様にお願いすること。これは、自分で何とかする。自分のことは、自分でしなくては。    そうでしょうか? 

「すべてのものは光にさらされ、明らかになる」のです。小さな不安も、わざわざ言わなくても、と思う問題も、どんなに小さく、つまらないことと思えても、

神様が「聞きたくない」「知らなくていい」事は、何もありません。

明かりが無ければ、私たちは夜、安心して歩けず、物を見つけるられず、道も色もわかりません。 それに、私たちは自分で自分を照らすことはできません。

暗い道から明るい所に出ると、私たちはほっとします。明るい所は安全と、知っているからです。 

 パウロは酔う、浸る、のは むしろ 満たされるべきなのは、神様の霊:聖霊だ、と言います。

光である神様の霊が、私たちの内側に来て下さる。そして、私たちの心が照らされるのです。

出エジプトのイスラエルの民のように、大胆に、何でも遠慮なく、神様の前に出すのです。

彼らが40年かけた信仰の訓練を、私たちもやってみましょう。信仰の筋肉トレーニングです。

いま、神様の前に出ても全くかまわない。何でも、神様は聞いて下さる、知っていて下さる。

そう。私たちは 安全です。明らかに光の中に居るのです。

お祈りいたします。

ここから17章までイエスのメッセージ。