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「神の業を行う」

 

20240908 「神の業を行う」

歴代誌下7章11-22節、ヨハネによる福音書10章22-39節       中村文子

 ヨハネによる福音書だけでもイエスは神様とご自分について、幾度も話しています。

安息日にベトザダの池で38年患った病人を癒した時「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と神を御自分の父と呼び、御自身を神と等しい者とされました。また、イエスは聖書は御自分について証ししている、と言いました。

 5千人以上の人々にパンを与えて満腹させた時、イエスは御自分を「天から下った命のパン」

と言われました。

イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、

「わたしは世の光である」とか、「わたしを信じる者は神に属する者だ」とも言われました。

「わたしは良い羊飼い。羊もわたしを知っている」とも言っておられます。

イエスは自分こそ、神に遣わされた者:メシア=救い主だ、と何度も言い、

ユダヤ人たちも、何度もイエスの話を聞いたのです。でも、彼らは信じないで、イエスを石打ち刑で殺そうとまでしました。 それなのに、ユダヤ人たちはイエスに言うのです。

「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 と。

 問題なのは、彼らが何度聞いても、イエスを神の子救い主だと信じない事の方です。

「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからだ」と、イエスは言い、

「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と彼らに聞きました。すると彼らは 今回も、「あなたは人間なのに、神を父と呼んで冒涜したからだ」と怒るのです。

 彼らが「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と、言うのが気になります。

イエスが神を冒涜している、と言う中には、祭司長たちのように、ほとんどイエスのところに来ない人々も居ます。でも、イエスと言い合っているユダヤ人たちは、何度もイエスのところへ来ています。彼らは気になっているのです。だから気がもめるのです。

イエスは何度も、彼らの前で奇跡の業を行っています。ベトザダで病人を癒し、五千人にパンを与えて満腹させ、生れつきの盲人の目を見えるようにしました。

 イエスが彼らを「わたしの羊ではない」と言ったのは、彼らがどうしてもイエスの言葉に引っかかって、信じられないで居るからです。

もし、イエスが神の子ではなく、神を冒涜する罪人なら、なぜ、神の業である奇跡を起こせるのでしょう?彼らの中には、イエスが悪霊に憑りつかれている、という人もいます。でも、

イエスが起こした奇跡は、皆、良いわざなのです。善い方は神お一人だ、と彼らは知っています。

イエスは彼らが気をもんでいる理由に気づいています。だから「どの善い業のために、わたしを殺そうとするのか」と聞いた。そして、言ったのです。

「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」

 自分が何に引っかかっているのか。何が自分が前に進むのを妨げているのか。

彼らが気をもんでいるので。彼らが怒りながらも、イエスの話を聞きに来るので、イエスは彼らと押し問答を続けているのです。彼らが自分の気をもませているものに気付いて、イエスの言葉が聞こえるようになる時を、イエスの群の羊になる日を、待ち望んでいて下さるのです。

 歴代誌下7章はソロモン王が神殿をようやく完成させ、神様に奉献した時のことです。

奉献された神殿が壮大なものだ、と、神様は認めて下さっています。けれど、主は壮麗な神殿を建てたから、ではなく、「もしあなたが、父ダビデが歩んだように、わたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と定めを守るなら」

「わたしはこの神殿を選んで聖別し…わたしの名をいつまでもとどめ…目を向け、心を寄せる」

と言って下さる。「もしあなたたちが背を向け、わたしの授けた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地から彼らを抜き取り、わたしの名のために聖別したこの神殿もわたしの前から投げ捨てる。」と言われるのです。

神殿や教会堂がいかに立派でも、そこで真心から礼拝が捧げられていないなら、神の家としては役に立たないのです。

神様が求めて居られるのは、神様の声を聞き、羊飼いである主の御手の内に 戻ることです。

そして もし、神の言葉に どうしても ピンとこない。理解できない ならば、

あの、イエスを冒涜者だと攻撃していた彼らも、気になって、気がもめてもめて、仕方なかった、

神様の行われた業に目を向けることです。

 ソロモン王は、壮大な神殿を建てましたが、一つ一つの仕事を導き完成に導いて下さったのは、

神様です。  私たちは毎日を頑張って生きています。その私たちに命を与え、時を与え、

考える力を与え、毎日 生活させて下さるのは、神様です。

神様は地上の私たちに、多種多様な言葉や コミュニケーション方法を与えて下さいました。

何とかして 私たちが神様を受け止め、それぞれの道で 救い主イエスに出会うため。

そして救われて、神様の祝福を全身全霊で 受け止めるためです。

 2,000年以上前に、神様が人として 地上に来られたことも奇跡。

その方の言葉や教えを、いま、私たちが自分たちの言葉で読み、聞くことができることも奇跡。

そして、すべてのものをお造りになった神様に、私たちが私たちの言葉で祈ることができることも、大いなる奇跡。神の業です。

神様の御手の中に置かれた者同士として祈りあい、私たちを通して働かれる主なる神に、

心から感謝しましょう。

お祈りいたします。

ここから17章までイエスのメッセージ。