20240915 「羊が帰るところ」
エレミヤ書50章4-9節、ヨハネによる福音書10章1-16節 中村文子
エレミヤ書は全部で52章。イスラエルとバビロン。ユダヤ人とカルデヤ人の戦いの時代は
終りを迎えつつあります。主はバビロンの滅亡と、捕囚の民の帰還の準備を始めておられます。
神の民は、目に見えるカルデヤの神々の神殿の立派さに惹かれ、自分の国を滅ぼした国の民と共に、偶像を礼拝した者も多かったのです。でも、彼らと共に礼拝したバビロンの民は、彼らを見つけると「彼らを食う」者でした。彼らを惑わした敵は、言い訳しました。「我々に罪はない。彼らが、まことの牧場である主に先祖の希望であった主に罪を犯したからだ」
そして、その言い訳は 残念なことに真実でした。偶像の民のところに彼らの憩う場所は見つかりませんでした。
そして今ようやく、主なる神は彼らをもう一度、呼び集める時が来たことを エレミヤの預言を通して示されました。たとえそれがイスラエル人の真の神への背信の結果であって、それを彼ら自身が自覚していても、主なる神は御自分の群の羊を、迷ったままにはされません。
主なる神は 真の神。天地万物を創造し、すべては主の御手の中に在ります。宇宙も、神の民も 偶像を拝む異邦の民も。 主はバビロンを用いて、主なる神から離れた民を祖国から引き離し、
彼らが「迷える羊」として、彼らの主を求め 泣きながら歩き回る時を待っておられました。
バビロンは巨大な帝国となりました。しかし主はこの国の神々に、その神を礼拝する民を護る力は無いと、お示しになりました。50章2節のベルとマルドゥクはカルデヤ人の拝する神々です。
「バビロンを荒廃させる。」と決めた主は、ペルシアやメディアなど バビロンより小さく、若い国々の連合軍を、9節の「大いなる国々の一団」とされました。
1つ1つはまだ小さく弱い連合軍は、主に用いられ「彼らの矢は練達の勇士のようだ。決して
空しく帰ることはない。」 主に用いられる矢を放った国ペルシアはやがてバビロンを凌ぐ大国となり、その王の一人キュロスは、イスラエルの捕囚の民の帰還を命じるのです。
捕囚の民は度々、神ではない異邦の王や、神の言葉を語らない 偽預言者に惑わされ、
「迷える羊」のようになりました。
イエスはヨハネによる福音書10章で、羊の囲い入って来る、羊飼いではない者たちについて、
教えます。 盗人や強盗 は 正式な入り口である門を通らない。明らかに敵です。
こっそり盗む。気づかれないように入り込む。言葉 巧みに近づくサギ師も、盗人です。
または関係者を傷つけてでも奪う強盗。暴力や暴言で他人を支配し傷つけるハラスメントも同じ。
盗人や強盗が 国家規模で大きくなり 影響圏が拡大した状態が、戦争です。
この人たちの目的は、殺すこと。奪い取り、食い散らすこと。
自分の利益や満足を求め、羊の喜びにも幸せにも関心は無い、滅ぼす力。
私たちは、残念なことに 恐ろしいことに 盗人や強盗に囲まれた所に 居るのです。
羊飼いではなく自分の羊を持たない雇人も、羊のことを心にかけない者、とイエスは教えます。
雇われ羊番は、危険や危機が起きるまでは 責任感のある、真面目な働き手に見えます。
羊は羊番が居て、守ってくれている、と 安心していますが、でも実は彼は、
「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」そして「狼は羊を奪い、また追い散らす。」
羊たちは雇われ羊番のものではありません。狼を目の前にした羊番にとって、一番大切なのは
自分自身の命。羊ではありません。
イエスが最後の晩餐を終えゲッセマネで祈っていた時、イエスを捕らえるために人々が来た時。あの時の弟子たちはまるで 雇われ羊番。一人残らず、イエスの側から逃げ出したのです。
エレミヤの時代、イスラエルの民は傷ついていました。たびたび 盗人や強盗に遭いました。
彼らは帰るべき場所を忘れ さまよっていました。
主なる神を尋ね求め、迷い 歩き回っているのは、捕囚の民も イエスの時代の群衆も、
いま、私たちと一緒に この国で生きている 大多数の人々も 同じです。
みんな、言葉巧みに騙され、暴力で支配され、あてにして期待した自分たちの番人が、結局は
迷っている羊よりも 自分自身の命や財産が大切で 危険を前にすれば逃げてしまう。
そして 弱って悲しみ苦しんでいる者たちは、狼の前に取り残されるのです。
どこに帰りたいですか?誰を信じついて行きますか?
イエスは ご自分を羊飼いと。それも、良い羊飼いであると言われます。
あなたが帰りたい場所で 待っていてくれるのは 誰ですか?
イエスは 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言う方。
私たちは「命を捨てる」と言われた主イエスが、有言実行の方であると 知らされました。
主イエスは 盗人たちによって ご自分に従って来ていた人々も 弟子たちも奪われ、失う経験をされました。そして 強盗のようにご自身の体も命も奪われ、十字架によって死なれました。
イエスは私たちを羊と呼ぶ。そしてただ、私たちを敵から守るために「命を捨てる」のではない。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
と 言われます。
イエスは御自分を地上に遣わした主なる神を父と呼び、羊のような私たちとご自分との関係を、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と言う方です。
イスラエルが捕囚となり、偶像の神々を礼拝する人々の中に居た時、彼らは帰る場所も 目指すべき主に向かう道も忘れて迷いました。しかし主は彼らを忘れず、彼らが泣きながら主を尋ね求めた時、彼らの顔をご自分の方へ向けて下さいました。
私たちの羊飼いは 良い羊飼い。私たちは主イエスの牧場の羊であり、主イエスが命がけで守る群の羊なのです。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
主は私たちの傷を知り、共に居て下さる方です。
良い羊飼いの呼ぶ声を聞きながら、私たちが帰る場所への道を辿りましょう。
私たち皆を 主イエスは一つの群として導いて行かれます。
信頼できる良い羊飼いのもとに、自分の憩う場所を見つけましょう。
お祈りいたします。
ここから17章までイエスのメッセージ。
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