20240922 「憐れみ 招く方」
詩編139章Ⅰ-12節、ローマの信徒への手紙11章25-36節 中村文子
「どうして、こんな当たり前のこと、彼らは解らないのだろう?」
パウロがこの手紙を書いた頃、ローマにもイエス・キリストの十字架と復活の福音は伝わっていて、いくつか教会もありました。教会のメンバーは自分たちが救いの恵みを頂いたことを、
心から喜んでいました。喜んでいるからこそ、彼らは不思議だったのです。なぜ、ユダヤ人の中の多くが、今もイエス・キリストの福音を受け入れないのだろう。
この疑問を持ったは、この時代のローマの信徒だけではありません。パウロたちの手紙は聖書として編集され、やがて旧約=ヘブライ語聖書と共に、多くの言葉に翻訳され世界中の人が読むようになりました。聖書によってイスラエルの=ユダヤ人の歴史も知られ、神がどんなに長い間、神の民として選んだ人々を愛し、導いて来られたかを知りました。
どうして彼らはあんなにも頑固に 福音を理解しようとしないのだろうか?
パウロも生粋のイスラエル人で、アブラハムの子孫のベニヤミン族だと、11章1節で言います。パウロはもともとキリスト信徒たちを迫害した人ですが、イエスを信じ宣べ伝えるようになってから何度も、ユダヤ人たちに伝道を邪魔され、迫害を受けました。
パウロも、自分の同胞であるユダヤ人たちが福音を知り、イエスの十字架による救いの恵みを受けて欲しいと、心の底から望んでいるのです。
聖書で神の民とされる国がなぜ、神の愛とはかけ離れた行動をしているのか、世界中が疑問を抱えています。ユダヤ人は「イエスを十字架に付けた民族」として迫害を受けました。今、私たちは困惑しています。彼らの国はなぜ、世界から非人道的と言われる行動を止めないのか。
イスラエル人全員が今の戦いに賛同しているわけではありません。戦いの悲惨さも、問題も疑問も、パウロが手紙を書いた時よりも広がっています。
「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように」 私たちは思ってしまう。ユダヤ人よ、 あなたたちこそ、戦いの悲惨さをよく知る人々でしょう。聖書が言う異邦人 非ユダヤ人ならば、誰もが思うのです。彼らユダヤ人は、こんなにも主なる神に愛され、沢山の預言者 指導者を
送られ、救い主イエスさえも ユダヤ人の一人として世に来られたのに、
なぜ、神の民として選ばれたあなたたちが、神の愛を表す生き方をしないのか。
ユダヤ人・異邦人が共に礼拝するローマの教会に、パウロは言うのです。
「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」この時代のローマ人が「異邦人全体」をどのような範囲で考えたかは判りません。
ただ、イエス様が弟子たちと共に伝道されていた時も、イエスは祭司長やファリサイ派の人々に反発され、かえって多くの貧しい群衆に受け入れられ、多くの人に伝わったのです。
福音は一旦 拒否され 広がって行く。神様の「秘められた計画」が行われているのです。
では、彼らイスラエル人は、他の民のために、犠牲にされる民族なのか。彼らが信じないことで、ユダヤ人以外:日本人も含めて が、救われることが神の御心なのか。
「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」
どんなに疑問を持たれても、彼らが神に選ばれた民であることは、変らない。
救われた私達も、神によって選び出された者の一人だという真実があります。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
詩編139篇は 私たちが立つも座るも寝るも知る神様。私たちの心にある言葉を、言う前に知っている神様への賛美です。神様は高く天に居られるのに、私たちが東西南北、空の上海の中、果ては死んで陰府に降っても、神様は私たちを取り囲み、力強い「右の御手」で、とらえていて下さる。神様は 光も闇も 創造した方。神様に私たちが見えないことは無いのです。
私たちが 聖書の中で、また世界のニュースに疑問を持つ時、その疑問が私たち自身に当てはまることに、目をつぶってはならないと思います。私たちは攻撃する残虐さを非難しつつ
忘れて自分の日常に戻れる残酷さを、持っています。私たちは自分が非難し疑問を持つ相手と
少しも変わらない、頑固で考えの狭い、小さく愚かな者であることを、認めなくてはなりません。
私たちは神様の御手の内にあります。神様がいかに大きく豊かで限りない方かを忘れがちです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。」
神様は 私たちが理解するよりももっと、大きく 豊かで深く、限りない方。
私たちは見えたものだけで判断します。争い合う人々を非難し続けるなら、それは、
なぜ、そんなに頑固なのか、と 私たちが驚き疑問を投げかけた、聖書のユダヤ人と同じです。
バベルの塔以来、世界の人々はそれぞれ違う言葉と文字を持ち、互いの言葉が通じないための苦労を重ねて来ました。それを別の角度から見れば、私たちは 私たちの言葉で伝えられる相手が居る、ということ。私たち一人一人は、小さいからこそ、私たちにできる それぞれの業を、
神様は与えて下さいました。
「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
私たちに伝えられるニュースは、悲しいもの、苦しくなるもの、悲惨なものです。
なぜ戦い続けるのか。なぜ傷つけあうのか。疑問に思う時は、主イエスを世に遣わされた主が、絶えることなく注いで下さる愛を振り返る時です。
「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」 主は憐れみによって、傷つき倒れている神に造られた人々を、ご自身の愛の内に招き入れて下さるのです。
お祈りいたします。
ここから17章までイエスのメッセージ。
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