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「超越を仰ぐ」

 

20241006 「超越を仰ぐ」

ヨブ記42章1-6節、ヨハネによる福音書11章28-44節         中村文子

 きょうの聖書箇所には、どちらも なぜ という疑問があります。

なぜ、神様はヨブを「これは何者か」と、𠮟りなさるのか。イエス様はなぜ、友人ラザロが死んでしまった時、ラザロの姉や妹が悲しむのを見て、「心に憤りを覚え、興奮」されたのか。

ヨブ記最初に「無垢な正しい人」と書かれた人です。そのヨブが、神様に「苦しみから、なぜ解放して下さらないのか」と叫び続けてきたのです。

 ヨブ記はたいへん裕福な人でしたが、子供たちや召使いも財産も突然、失います。

ヨブはたいへん悲しみますが、この災難も神から与えられたものとして へりくだり

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」すべて神様が与え 取られるのだから、文句を言うべきではないと言いました。

彼はその後病気になり、体中に激しいかゆみを伴う皮膚病ができ、彼がヨブだと判らないほどひどい姿になってしまいます。ヨブの妻が苦しむ夫を見ていられず言いました。

「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」彼女は「悪妻」と言われますが、これこそ真の共感の叫びだと 読み取る人もあります。

見舞いに来た友人たちは、彼らなりにヨブの苦しみを理解し、慰めようとします。

けれど彼らの言葉は次第にヨブの生活態度や不信仰を疑う言葉となり、ヨブをさらに苦しめる。ヨブを守ってきた、家族、財産、健康、友人が失われました。やがてヨブは、神がなぜ自分をこんなに苦しい所に置いておかれるのか、自分には罰を受けるような罪はない、と 自分の正しさを述べ挙げるようになります。

 そんなヨブに神様が答えた言葉が38章~41章。神様はヨブの「なぜ」には答えません。 神のお創りになった自然が、生き物が どうやって生きているか。宇宙のすべてがどう動き、その理由を ヨブはわかるか、と 激しい言葉で問いかけます。ヨブよ お前は人に過ぎない。だから 神よりも自分が正しいと言ってはならない。ただ反論せず、全てに神様の御旨=お考えがある、と認め受け入れよ。ただ 信じて 神を仰ぐ者として生きよ、と。

これはとても難しい。人は自分に理解できる理由や根拠を欲しがります。

神様がヨブに要求されたのは、神様の御業の理由や根拠や価値を理解する事ではありません。

神様が 正しい 間違っていると 意見を述べるな。結論を勝手に想定して期待するな。

それは信仰ではなく傲慢だ。神を自分の枠の中に押し込めるな、と主はヨブに言われたのです。ただ信じて神様の時を待て。どのような将来も神様の御手の内なのだと思い知り、委ねよ と言われた。

 11章をはじめから見ると、イエスはラザロが病気だという知らせを受けています。命に係わる病気と知っておられても、2日間 イエスはラザロの家に行かずに留まりました。

イエスはマルタ達からの知らせに「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言っていたのです。

 ラザロの家で、イエスはまず、マルタに「あなたの兄弟は復活する」と言いました。

マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」

「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えましたが、彼女はイエスに会ったとたん、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言ったのです。彼女の姉妹マリアも、マルタと同じ。イエスの来るのが遅いからラザロは死んだ。一緒に居たユダヤ人たちも同じ思いでした。

それでイエスは「心に憤りを覚え、興奮し」たのです。

11章35節「イエスは涙を流された。」 イエスが涙を流したという記述は聖書でここだけです。

「この人は盲人の目を開けたのに」ラザロは死なせてしまった、と言う者も居て、

イエスは「再び心に憤りを覚え」、墓をふさぐ石を取り除けるよう言いますが、さらにマルタに「死んで四日も経っている」匂うから 開けない方が良い と言われ…

 マルタは「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言い、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 と問い、マルタは「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と応えました。けれど、本当のところ、マルタもマリアも一緒に居た人々も、イエスの力を信じていませんでした。

イエスは開いた墓に大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。

彼らの前に、ラザロは葬りの遺体を包む布に巻かれたまま、出て来ました。 

 神様は、ヨブに友人たちを与え、共に苦しんでくれる妻を与え、さらにヨブに、

神であるご自身は、人間の知識も理解も想定も、超越した方だ、と知らせて下さいました。

イエスはあえて病に苦しむラザロではなく、死んで葬られた彼の所に来られました。

 イエスが墓の前に立った時の思いは、祈りの中に現れています。

「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」。

私たちを遠く超越しておられる神が、神の子イエスを人として、

救い主として世に遣わし、私たちが死と滅びを乗り越え、永遠の命を受けられるようにして下さいました。  ヨブが心からへりくだり、仰ぎ見た全能の神に、

私たちも信仰と愛と感謝をもって 委ねて、共に歩いて頂きましょう。

お祈りいたします。