20241013 「滅びないために」
ヨハネによる福音書11章45-54節、ヘブライ人への手紙9章11-15節 中村文子
「ラザロ、出て来なさい」イエスの呼びかけに応え、死んでいた人は墓から出て来ました。
やはりこのイエスという人は、あの兄妹たちが言う「世に来られるはずの神の子、メシア」だ、と多くの人がイエスを信じました。でも、信じない人々は居るのです。
彼らはファリサイ派ユダヤ人にこのことを報告しました。
イエスについての証言はこれまでもいろいろあり、ファリサイ派や神殿の祭司たちはイエスと度々 論争しました。 今回の問題は死者の復活という大きな奇跡。目撃者も多数。
祭司長とファリサイ派の人々は最高法院を招集しました。最高法院=サンヘドリンは、ユダヤ人の政治・司法の宗教的国会にあたり、地方版もありますが、この時は70人議会とも呼ばれる大サンヘドリン 中央議会です。この年の大祭司カイアファも出席しています。
議会に出された問題が47-48節「この男は多くのしるしを行っている…このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。…ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」
新約聖書ではイエスや後のイエスの福音を語った使徒たちが、度々、ユダヤ人の妨害を受けています。それはイエスを嫌いだった等の感情論ではなく、彼らも、追い詰められていました。
ローマ帝国は地中海沿岸に勢力を伸ばし、多種多様な民族と宗教を公認して、融和政策を行いました。公認の条件は、ローマ皇帝とローマ神話の神々を拝む国の行事に参加すること。
バビロンのカルデヤ人、ギリシア人など 多神教の国々は自国の神とローマの神々との共通性を主張し切り抜けました。しかしユダヤ教は一神教で、ローマ皇帝を神とは認めていません。
ローマ人はわかりやすさ つまり 支配しやすさ を求めました。彼らはユダヤの律法に則った宗教活動。神殿を中心にした信仰生活 という条件を付けられていました。
街中で、山で、野原で、イエスの周りには多くの群衆が集まりました。イエスは五千人以上の人をパンで満腹にし、安息日に盲人の目や生れつき立てなかった人の足を癒しました。
エルサレムの神殿以外の場所で集まる人々を、ローマ政府が問題視すれば、
ユダヤ人に認められていた礼拝の自由が奪われるかもしれない。
どうすればいい?悩むユダヤ議会で決定的な発言をしたのは、大祭司カイアファでした。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
それにしても、ユダヤ議会の議事の内容を伝えたのは誰でしょう?ニコデモや アリマタヤのヨセフでしょうか?この時点で、議員も、カイアファ自身も、イエスの弟子たちも、カイアファの発言が神の御心によるものとは考えなかったでしょう。ローマ帝国におけるユダヤ人の礼拝の自由を守るために、ユダヤ議会はイエスの死という策を採択し、この決定に向け動き始めました。イエスは十字架に続く道に立つことを知った上で、ゲッセマネで祈りました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
イエスの十字架刑を決定した夜中の裁判の裁判長はカイアファでした。
イエスの死を、主なる神も、イエスご自身も、ユダヤ議会も、必要と考えていた。
神と人の目的がイエスの死という一点で、一致していたのです。
大祭司とは どんな存在なのでしょう。
イスラエル人は出エジプトの後、シナイ山で主なる神と契約を結びました。
ヘブライ人への手紙9章は、古い契約と新しい契約について書いています。モーセ5書と呼ばれる律法には、民が神の前で礼拝できるよう、民の罪・汚れを清める方法の規定があります。 民が罪の贖いのためまたは 神への感謝のための献げ物を、祭司が規定通り捧げます。この時、祭司が入って行くのは幕屋または神殿の「聖所」です。
毎年、年に1度、民全体の罪を清め贖うために、選び召された大祭司が献げ物のために入るのが、神殿の最も奥で、普段は人間が入れない「至聖所」です。
大祭司はここに入るために、自分自身を清める儀式を行い、自分自身と民全体のための罪の贖いのための献げ物をする。この献げ物のために用意するのが、「傷も汚れもない」生贄です。
ヨハネによる福音書が書かれたのは、四福音書の中で最も後。ヨハネは集められた情報を学ぶ中で、大祭司を通して御心を示された主なる神の言葉を聞いたのです。
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
イエス・キリストの十字架が 神殿の至聖所として用いられた、とヘブライ人への手紙は言います。キリストは神殿や幕屋の隔ての幕ではなく、神の御座から地上へ降って、全人類罪の贖いのための至聖所=十字架に入り、神の恵みの大祭司として生贄を捧げた。御自身を傷も汚れも無い生贄として ただ一度、お捧げになった。イエスの死と共に神殿の聖所と至聖所を隔てる幕は真っ二つに引き裂かれました。
(マタイによる福音書27章51節 マルコによる福音書15章38節 ルカによる福音書23章45節)
ヘブライ人への手紙は、キリストを新しい契約の仲介者と呼びます。キリストの死によって、
罪赦された者に神の国の相続権が発生しました。イエス・キリストは、さらに復活することによって、死 が持っていた「滅び」そのものを、滅ぼして下さいました。
カイアファも議会の人々も、彼が言った「国民全体」をユダヤ人全員と考えたでしょう。
でも、その「国民」は、地上のどの国のことでも無く、神の国に招き入れられるすべての人の
ことであると、私たちは知らされています。
神の民 全体が「滅びないために」、神の子キリストが受難し、身代わりの死を遂げて下さいました。 私たちは「永遠」の相続人となったのです。
お祈りいたします。
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